大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

新文典別記. 上級用

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私:戦前に橋本文法というものがあり、橋本進吉は補助形容詞「ない」を主張。橋本進吉著新文典別記・上級用(1935)四篇「口語では『ある』の打消は『あらぬ』とも『あらない』ともいはず、別の形容詞『ない』を用ひますから、補助動詞の場合も亦打消には補助形容詞『ない』を用ひます」。
君:左七君はどう評価したいの?
私:恩師・橋本進吉の突然の死(1945/1/30)により直弟子・岩淵悦太郎が戦後に急遽、学校文法を著した。かくして橋本理念が戦後の中等教育で教えられる事に。「補助用言」問題は高校入試に出題される事となった。
君:今夜は入試テクニックのお話?
私:ではなくて・・・。
君:はっきりおっしゃいよ。
私:補助形容詞の知識って不必要だと思うのだけれど。
君:根拠は?
私:ものの存在の有無を陳述するのに「ある・ない」を使う。五歳の孫と三歳の孫がいるが、あの人達が既に自由に使っている。
君:乳幼児に文法は関係ないわね。
私:そう。関係ない。でも正しく日本語を使っている。彼らは「あらない」とは決して言わない。言うのは「ある・ない」だけ。
君:何が言いたいのか、ひと言でお願いね。
私:自ラ五(自動詞ラ行五段)「ある」・形ク「ない」と考えるからいけないんだよ。「ない」は形容詞ではなく、動詞だ。ほんとかな?
君:そんなの中学お受験でもアウトだわよ。
私:そうだね。じゃあ、こういうのはどうだ。「ある・ない」は存在詞。
君:存在詞という品詞は存在しない。おばんギャグ。
私:おいおい、橋本文法、つまり学校文法ではね。山田孝雄の文法学説では、形容存在詞(形容詞カリ活用)、動作存在詞(助動詞「り」を伴ったもの)、説明存在詞(助動詞「なり、たり」「だ、です」)などを説く。〔日本口語法講義(1922)。この考えを踏まえ、「ある・ない」は存在詞の代表である、と僕は考える。
君:あなたの考えは山田文法とも異なるのね。
私:具体的に行こう。「ある」の否定は「あらず」。ところがさにあらず。「にあらず」は否定、「であらず」は推量。同じ格助詞でも意味の違いの係り結びになっているんだ。「ない」の否定は「なくあらず」、「なからずや」で反語的の否定文の作成が可能だ。つまりは「にあらず」は「なし」と同じ意味。「あり」は「なくあらず・なからずや」と同じ意味。印欧語では肯定の意味の動詞しかなく、否定の意味は adjective を付加する。英語は be not、そしてドイツ語は nicht sein。尤もこちらのほうが文法的には余程すっきりしているね。形容詞もカリ活用は命令形があるし、日本語の話に戻るが、四段も形クも六段の活用の音韻は酷似、つまりは、ヤレ動詞だ・形容詞だ、と言わず、存在を陳述する用言とひとくくりにして、然もこの一言が肝だが、日本語は印欧語と根本的に異なり、この概念を対語の品詞で表現する。私の三歳の孫が何不自由なく使いこなしているのだから。ところでね、その孫達だが、口癖があるんだ。
君:ほほほ、お披露目したいのね。
私:オモチャを散らかし放題。目的物が見つからないので「ない、ない、ない、ない」と言いながら歩き回るんだ。
君:ほほほ、そして突然に「あった!」というのでしょ。
私:その通り。「ちっともない」とか「なかった」という言葉も口癖によく言う。やめてください、学校文法。
君:まあね。ところで左七爺さんの「ないはずないよ、一緒に探そう」という言葉もちゃんと理解できるのね。ほほほ

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