大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
評価形容詞連用形の怪 |
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私:名古屋方言で「どえりゃーうみゃー」は結構、全国に知られている言い回しで、「どえらくうまい」の音韻変化である事位は、どなたでもお気づきの事だろう。今日は、これにちなんだ飛騨方言の話。 君:流石に飛騨方言では「うみゃー」とは言わないわね。 私:うん。「うまい」か、せいぜいが「うめえ」、つまりは飛騨方言では「どえりゃーうめえ」とでも言う事はあるね。 君:つまりは、これって名古屋の影響という事なのかしら。 私:そのように考えたい。問題は「どえらい」は終止形なのにどうして連用形として用いてしまうのだろう、という文法のパラドックス。 君:そんな事、どうでもいいわよ。意味さえ通じるのならば。 私:その辺が問題と言えば問題。私は出身が高山市の近郊で大学以来ずうっと名古屋だ。そして家内は生まれも育ちも名古屋。娘が二人いるが、要はギア方言(岐阜・愛知)の私共夫婦が二人の娘を育てたという事。つまりは我が家はギア方言がデフォルトなんだ。 君:いいから、具体例がいいわよ。 私:家族四人で毎晩のようにラインSNSをしているが、母親が「宅急便、届いた?」と発信すると、娘が「届いたよ。すごいおいしい。」というような感じ。私としては娘に正しい言葉遣いを教えるべきか、悩んでしまう。 君:ちょっと待って。娘さんって既に大人の方でしょ。時すでに遅し、という事じゃないかしら。 私:そうだね。言葉というものは子供が乳児の時に教えてこそ教育効果がある。それに家族でちゃんと意味が通じているのだから。ただし、これは「気づかない方言」あるいは「気づかない地域共通語」である事は間違いない。せっかく方言学について学問的に考える場だと思うので、あるひとつの理由によって生じた現象だと思うのだけど。形容詞の種類も限られていて「すごく」を「すごい」、「えらく」を「えらい」、「ひどく」を「ひどい」、等々、つまりは評価形容詞と呼ばれるものが別の形容詞を修飾する場合が多いと思う。 君:形容詞の下位分類たる評価形容詞ね。でも動詞を修飾する場合でも使えるのじゃないかしら。私だってバリバリの岐阜県人よ。私の子供は甘いものが大好きで、甘いものは(すごい(=よく))食べるのよ。 私:なるほどね。飛騨方言のセンスにあっているね。確かに。とても疲れる、と言う意味で「ドエライ疲れる」というし、「親にドエライ叱られた」も飛騨方言そのものだ。 君:つまりは、飛騨方言における評価形容詞終止形による連用形表現、という事ね。 私:そう、正にその通り。そして、その成因メカニズムだが、つまりは連用形ウ音便から来ているのではないだろうか。つまりは「く」が「い」に音韻変化したのではなく、「う」が「い」に変化したからでしょ。 君:つまりは「すごう食べる」がいつの間にか「すごい食べる」になったのでは、という理屈ね。でも「えろううまい」から「えらいうまい」は「ロー」から「ライ」の音韻変化になっちゃうわよ。 私:しかも古語は元々は形容詞連用形ウ音便が無かったところへ京都でこれが誕生したわけだから連用形「く」が「い」に変化したのは、実実に三段階を経て、という事だったのか。早い話が飛騨方言では評価形容詞の活用は「かろ・かっ・く・い・い・けれ」ではなく「かろ・かっ・い・い・い・けれ」だ。ぶふっ 君:嘘か誠か、ドエライ難しい話ね。ほほほ |
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