大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 音声学

そもそも飛騨方言が聴こえるとは(聴覚伝導路)

戻る

私:今日は、なせ飛騨方言が聴けるのか、という簡単なお話をしよう。まずは質問、飛騨弁を聴いている場所はどこ?
君:なによ、その言い方。答えを教えているも同然じゃないの。答えは耳、ではないわよね。
私:その通り。飛騨方言を聴いているのは耳ではない。
君:答えは、脳。
私:その通り。脳が聴いている。耳は聴いていない。聴いているのは大脳皮質の一次聴覚野。
君:耳は単なる入り口ね。
私:それじゃあいけないな。耳はAD変換器だ。
君:AD?
私:アナログからデジタルへの変換器だ。
君:あら、脳ってやはりコンピュータだったのね。アナログの機械ではない、という意味ね。
私:その通り。脳は無数ともいえる脳神経の塊だが、各々の脳神経が複数のお手々を持っていて無数のほかの神経と手をつないでいる。その手と手の繋がりだが、相手に興奮を伝える・あるいは抑制する、つまりオン・オフしかない。
君:なるほど、悉無律ね。
私:脳細胞一個一個も、何のことはない、パソコンに近い事をやっている。
君:というか、脳はデジタルマシンなのだから、巨大なパソコンそのものよ。
私:なんだ、わかっているじゃないか。当たらずといえども遠からず、ってやつだ。
君:若しかして、これって前置き?やめて頂戴ね。言いたいことを一言で書いてよ。
私:はいはい。飛騨方言は空気の振動、つまりはアナログテータだが、まずは内耳(AD変換器)がデジタル情報にする。内耳の事を蝸牛器官ともいうが、要はカタツムリ、ピアノの鍵盤のようにずらっと特定の周波数でのみ興奮する神経細胞が整列しているんだ。
君:あら、意外とシンプルね。
私:そんな事で驚いてはいけない。実は一次聴覚野もピアノの鍵盤のようにずらっと特定の周波数でのみ興奮する神経細胞が整列している。
君:ワオ、なんと単純な仕組み。つまりは一対一で対応しているのね。
私:そうなんだよ・・・と言いたいところだ。一次聴覚野の神経細胞群の並びは内耳の超神経の並びと一対一で対応していると言えなくもない。
君:言えなくもない、という事は、一対一というような単純な話ではない、という事なのね。
私:まさにその通り。蝸牛も一次聴覚野も、特定の周波数に反応する神経細胞が、ピアノの鍵盤のように整然と並んでいるが、実は、左の蝸牛の情報は右の一次聴覚野に、また、右の蝸牛の情報は左の一次聴覚野に、という事で、右の耳で聴いた情報は左の脳へ、そして、左の耳で聴いた情報は右の脳へ、という具合なんだ。
君:ほほほ、脳ってつむじ曲がりなのね。
私:つむじ曲がりなのはそれだけではない。右の蝸牛の情報は右の一次聴覚野にも少しだけ情報が送られる。同様にして左の蝸牛の情報は左の一次聴覚野にも少しだけ情報が送られる。
君:なるほど、片方の耳がだめになっても左右の大脳半球で聴く事が出来るのね。ブラボー
私:ただし、前頭葉は生まれた時から左右の耳が左右の一次聴覚野に送る情報がステレオ音だと信じているから、片耳を失った瞬間にモノラル音にしか聴こえなくなる。悲しき脳。
君:それは仕方ないとして、蝸牛と一次聴覚野は直接、手をつないでいるのね。
私:それこそ今日の本題だ。実はそうではない。ところでその昔、日本からヨーロッパって北回りと南回りがあったよね。
君:ええ。
私:今の人は知らないだろう。ヨーロッパ直行便が当たり前。その昔、北回りは、成田・アンカレッジ、アンカレッジ・ヨーロッパ、で必ずアンカレッジを経由した。南回りは幾つかのルートがあって、成田・上海・ドバイ・ヨーロッパ、なんてのがスタンダードのルートだったな。それと同じで、実は蝸牛と一次聴覚野のリレーは四個の神経細胞がやっている、つまりは中継点(飛行機なら給油地)が少なくとも三つ在るんだ。フィルター処理、なんて言葉もある。僕は少しエレキギターをやるが、つまりはフィルター処理という事はエフェクターとおんなじや。アンプから出てくる音は弦の音とは似ても似つかぬ音というわけ。ぶふっ
君:いやだ。複雑すぎるわよ。しかもその四個の神経細胞さんとやら、また左右で情報交換しているのじゃないかしら。
私:Who knows? 一つ言える事は、四個の神経細胞という事は、少なくとも三つの中継点がやっているという事。
君:やめて、その複雑すぎるお話。
私:はいはい、やめます。一つ言える事は、これだけは言わせてくれ、その四個の神経細胞さん達は脳幹部を突き抜けているという事やね。
君:脳幹部?
私:脳の幹ですよ。大脳がなくても、ヒトは植物人間の状態で生きながらえる。脳幹部は生命の根幹であり、呼吸・情動・自律神経、等々、これがないとヒトは生きる事すら困難だ。ヒトの尊厳は大脳にある。脳幹だけで生きる人間にヒトの尊厳はない。脳死の権利を与えて、つまりは人為的に生命の死を与えましょう、というのが脳死の考え。つまりは、なせ飛騨方言が聴けるのか、それは内耳(AD変換器)という器官のデジタル情報が脳幹部を四つの神経でリレーされて一次聴覚野のデジタル情報に投影されるから。
君:つまりは、ほほほ、大脳で飛騨方言を聴く前に情報が通過する脳幹部で情動というものが発生しているのね。
私:そうなんですよ。おふくろの言葉を聴いただけで泣けてくる、こんなのよくある話だが、これは実は大脳半球(つまり知性)のなせる技ではない。
君:なるほどね。知った人の言葉に思わず反応したり、飛騨方言に妙に懐かしさを覚えたり、これは大脳ではなく脳幹部、つまりは生まれて間もなく・大脳の発達の前の脳、つまりは旧皮質のなせる技、つまりは新皮質も古皮質も関係ないのね。ほほほ
私:僕は脳科学者ではない。そこまで言い切っていいのか、という気持ちがないわけではない。古皮質が表れるのは両生類、つまりはカエルさんから。でも犬が好き・犬の気持ちがわかる、なんて人は旧皮質で結びあっていると思ってくれ。俺ってカエルを飼っていて、なんとなく気持ちがわかったような気がした覚えがある。カエルちゃんと佐七は旧皮質で繋がっていた。すかさず一句
ゲコゲコと 鳴く蝌蚪やあはれ 吾がこころ
カエルちゃんは何故鳴くのだろう、求愛だな。ぶっ
君:佐七君もお母さまに死なれると泣けて仕方ないかも。それこそ人である、というよりカエル並みに悲しい、という事かしら。脳幹部で感じちゃうわけだから、大脳(知性)は関係なし。動物の本能ね。今日の結論としては、聴く事は動物の本能かも。ほほほ

ページ先頭に戻る