大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 音声学

文節境界(a finite clause boundary)

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私:昨日あたりから音声学について本格的に学び始めたばかりで、まだ十分に頭の中でこなれていないが、とりあえずわかった事だけでも書きとどめておこう。
君:文節というのは少なくとも中学生、あるいは小学生でも習うわよ。文の切れ目。
私:うん。そういう教室で学ぶ事を議論するのではなく、声紋分析した場合に文節はどのような形で現れるのか、という命題だ。ポーズ、即ち一息を入れれば、これはもう明らか、音の切れ目が文節である。問題は連続して話す場合だ。どう考える?
君:ほとんどの日常会話文は定型文なので切れ目なく一気に発声するわ。
私:その通り。文節の切れ目にどんなパターンが出てくるのかを声紋学的に推察するのは極めて困難、というか、事実上は不可能。この事を「文節境界の欠如」という。文章を見れば文節は明らかだし、会話をする実際の場においても、話し手は文節を意識して話すし、聞き手は文節を意識して意味を理解する。「庭には二羽、鶏がいた」という文章が誰にでも理解可能なのは文節のおかげだが、肝心の声紋にこれを見出す事はできない。
君:聴覚というのはアナログ(空気中を伝わる複雑怪奇な波形)をデジタル(意味ある文字情報)に変換する作業なのね。
私:その通り。その裏返しで、話すという作業はデジタルからアナログへの変換だ。そしてこの情報変換は可逆的。つまり、情報の劣化は生じない。
君:それは脳内に確たる言語イメージがあって、常にそれと照らし合わせながら聴いたり話したりしているという事なのよね。
私:コンピュータAIが話す時代だが、例えば初音ミク、意外に簡単な仕組み、二個の異音 di-allophone を用いた素片結合 concatenative synthesis 、という手法が用いられているようだ。
君:ははあ、わかったわ。人間の脳も concatenatie synthesis using di-allophone の仕組みで言語を話しているのでは、とお思いなのね。ほほほ

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