世の中にはおふざけサイトが多く、
当サイトも実はそうでしょう。
飛騨方言なんて所詮はいずれ消滅してしまう、
取るに足らないもの、
家内が私によく尋ねます・毎晩どうしてそうも話題が続くのか、と。
ははは、既に千七百ページ書いた(2007/10/8)・前人未到の領域・
自分に挑戦・目標一万ページ。
さて、飛騨方言を勉強しているとどうしても近隣の
方言も勉強しなくてはなりません。
飛騨方言の勉強に必須の方言は実は名古屋方言です。
滋賀県あたりの方言の理解は京言葉の知識なくしては
不可能でしょうね。
方言そのものについての専門書も実に多い。
ついでに勉強するに限ります。
このように爆発的に知識が増えると、
うーん方言学っておもしろいね、という話になってしまいます。
大阪方言や京言葉の書が書店にあればつい買ってしまう、
でも飛騨方言の理解のために決して無駄な事ではありません。
実は時々はヒントが得られるのです。
ところで方言とはいえ国語、つまり飛騨方言も含めた
方言学を考えるという事は国語学を考える事。
また世界には数千以上の言語があり日本語もそのひとつ、
それらから規則性・普遍の真理を見つけ出すのが
言語学というわけです。
さて本題ですが、文学部心理学科という言葉がありますが
いかがなものでしょうか。
こころ、を扱うのが心理学でしょうが、
こころの中に言葉があるのであって、言葉の中に
こころがある訳ではないでしょう。
現実には文学部には心理学科があるが、心理学部には文学科がない。
くどいようですが、人間の脳にはまずは、こころ、というものが
ある。人間にはこころを表現するために言語という手段を用いる
能力があるのです。
もはや明らかでしょう、心理学>言語学>日本語学>方言学>飛騨方言、
のような階層分類なのでしょう。
以上が前置き、さて本題です。
実際の佐七の脳みそもそのようになっているのでしょうか。
答えは断じて否。最近、言語学についても少し勉強していますが、
チョムスキーを知らなくては佐七には飛騨方言が理解できない、
という事のようです。
佐七の脳には、こころ、がある。その心には言語がやどっている。
ここまではよし。
おっとどっこい。
実は、こころ、には
チューリングマシン・ゼロ型文法・人類普遍の言語エンジン、
というものがやどっている。
そしてチューリングマシンの中に自然言語がやどっている。
実は自然言語の中にその人の母語・つまりは私にとっては飛騨方言、が
やどっている。母語をもとにヒトは第二言語をも学習する。
がしかし筆者にとっての第二言語・日本語、は飛騨方言と
酷似する言語ゆえ、筆者はその差に
気付く事さえ困難です。
文学部心理学科というのは恣意的な言葉なのです。
アカデミアにおけるパワーポリティクスの申し子。
文学、畢竟・飛騨方言の文法、に気付き記述する事は
簡単でしょうが、飛騨方言の心理学、
つまりは何故、飛騨人は飛騨方言で話し合うとお互いの心が
通ずるのか、これを考えるのが最も高尚な話題なのでしょう。
文法など些末な事です。
また、人に仮装マシン・チューリングマシンを意識する
事など不可能です。つまりは筆者にとって実際は、こころ=飛騨方言。
参考 中公新書・酒井邦嘉著・言語の脳科学 脳はどのようにことばを生みだすか
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