大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 心の旅路

長崎の童歌 でんでらりゅうば

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私:コロナ禍で閉塞感が漂う世情だが、せめて心だけでも健康に保ちたい。

でんでらりゅうば(若し)出られるならばいで・いでらるれば
でてくるばってん(勿論)出ていくけれどいでくればとも
でんでられんけん(やはり)出られないからいで・いでられぬからに
でーてこんけん(つまり)出ていかないからいでこぬからに
こんこられんけん(どうしても)いけないからこら・こられぬからに
こられられんけん(つまり)いけないのでこられ・られぬからに
こーんこん(絶対に)行かないよこぬ・こぬ

君:長崎の童歌ね。方言解釈をまた古語でやろうという目論見ね。
私:この幼子たちは古語を知らない世界で生きているが、高校生にでもなれば理解できようというものだ。
君:では早速にお願いね。
私:「でんでらりゅうば」の「でん」に意味は無い。語調を整えているだけ。問題は「でらりゅうば」だが、自ダ下二「いづ出」の未然形「いで」+可能「らる」の已然形「らるれ」+係助「ば」、つまり「いでらるれば」、従って上古から歌われていたとすれば「いでいでらるれば」だろう。已然形については議論の多い所だろう。原意は「出て行ってみたところ」という順接のはずだが、童歌では仮定の意味に変化している。
君:そして、長崎方言では「行く」という事を「来る」というのよね。
私:そう。各地の方言になっている。飛騨方言でも「あしたりおめんどこへ来るで(あす、あなたの処へお伺いします)」などと言う。「でてくるばってん」は「いづ出」連用形+カ変「くる来」+接助「ば」+接助「とも」。但し接助「ば」は活用語の已然形に接続するのでカ変「くる」の已然形「くれ」でないとおかしいね。つまりは「でてくるばってん」は「いでくればとも」。これがいつの間にか「いでくるばとも」になっちゃったんじゃないかな。
君:要は「でらりゅうば」は順接仮定なのよね。続いての「でんでられんけん」は原因・理由というわけね。
私:そういう事。「けん」の語源は「からに」、つまり「でんでられんけん」は「いでいでられぬからに」。
君:「でーてこんけん」は「いでこぬからに」ね。
私:そういう事。自ダ下二「いづ出」もカ変「く来」も同じ意味で使っているから意味が重畳している。「いでこぬからに」あらため「いでぬからに」でも「こぬからに」でも同じ事だ。
君:「こんこられんけん」と「こられられんけん」も意味が重畳しているわね。「こられぬからに」と「こられられぬからに」の違いよね。
私:要はそういう事。「こんこられんけん」では可能「らる」を一回、「こられられんけん」では可能「らる」を二回使っているという言葉遊びだ。可能「る・らる」だが、「る」が四段動詞に接続し、それ以外、つまりはこの場合はカ変「く来」には「らる」が付く。「らる」を二連続で使うとなると「られ・らるる」の体言止めになる。がはは
君:さすがに「こーんこん」は説明が必要ないわね。
私:いや、「らる」を二連続で使ったから「こぬ」も二連続で返してやったというわけだな。つまりは可能「らる」の二連続に対し、否定・否定の「ず」の二連続で返してやった、という意味がある。
君:この歌にどんな思い出があるの?
私:学生時代の貧乏旅行。長崎のユースホステルで。夕の宴はご飯とメザシが一匹。宴の後にゲストがお遊びタイムでもてなしてくださった。家内も旅行好き。結婚前の事をよく語ってくれる。
君:左七の鈍行の旅、懐かしい事だわよね。つまり互いが放浪癖だった夫婦ね。ほほほ

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