純文学

三島由紀夫の死

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三島由紀夫は楯の会隊員と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(防衛省)を訪れ東部方面総監を監禁、バルコニーでクーデターを促す演説をし割腹自殺したのが1970年11月25日、世に三島事件として知られていますが、当日の思い出を。私が高校二年生の秋でした。

午後の最初の授業が古文の住英明先生でしたが、先生が教室にお入りになるや、『皆さん、つい先ほどですが、大変な事件が起きてしまいました。小説家・三島由紀夫が東京の自衛隊で割腹自殺をしたのです。私の授業は古文ですが、五分ばかり三島文学についてお話しさせていただきましょう。従って50分の授業ですが、45分程度という事で多少は早口になるでしょうが、あらかじめご了承くださいね。』と言って、キッとした目つきで私達生徒を睨むように、早速に矢継ぎ早に彼の生い立ち、主な作品、国内外での評価、一時はノーベル文学賞候補にあがった所謂、天才肌の小説家であった事等をお話しになったのでした。残り45分の古文の授業ですが私が敏感に感じ取った事は、今日の先生の授業は少し違うな、心の中に二人の人間がいて、ひとりはこうやって生徒に授業をしていらっしゃるが、もうひとりは先ほど自殺した三島由紀夫の事で茫然自失となっている、という事だったのでした。

今日は2020/1/24の朝、ですから約50年の昔のほんの五分ほどの事を、いったい全体、山本秀平という町医者は克明に覚えているのか、彼は多分、多少の、いやほとんど自由な空想・発想で、この文章を書いているのでは、・・・このようにお感じの読者様もいらっしゃいましょうが、私は今も、当日の住先生の言葉の一字一句から、当日の先生の顔の表情まで克明に覚えていて、つい昨日の事のように思い出されるのです。高校の同窓会が何年かおきにありますから、今度、級友にあってその事を皆に聞き出してもいいのですが、多分、彼らの誰も覚えていない可能性もあるでしょうね。

彼が不惑の45歳で自殺したのは皮肉というより、死を選んだ事に一切の迷いはなかったはずですから、彼の病根は、やはりずうっと以前、あるいは幼小児期にさかのぼって根深いものがあった可能性が高いと思います。さて当日の事ですが、私は高2の秋、つまりは一年と少しでいよいよ大学受験です。自分には受験以外の事は眼中に無く、こんな事件があったのだから三島文学が受験で出る事はないのだろう、と思った事と、それにしても気になる作家だから、晴れて大学生になった暁には彼の作品を全部読んでやろう、と思った事。ひとまずは大学生になるまで三島文学は封印です。

ここからは月並みな議論になりますが、大学生になり、まずは『仮面の告白』を読みました。ただし、なるほどそういう事か、程度の理解はできたものの、次から次へと彼の代表作品といわれるものを読んでも、私の三島由紀夫に対する理解は深まるどころか、逆に謎が深まるだけです。たったひとつだけ確かな事と言えば三島事件の日の国語・住先生の五分間のお話を克明に覚えているという事。

もう一点、私の心に今まで暗い影を落とし続けていた高校二年生のエピソードがあるのですが、それはひとりの級友のお父様の自殺。三島事件の数か月前の事でした。人生で最も多感といってもよいこの時代に実の父親に自殺されるという事はどれだけの苦悩なのだろうか。葬式当時は彼女は欠席、担任と打合せをしていたのでしょう翌日は始業の前に級友を前に挨拶。そんな彼女の今後の事を思うと勉強がしばらく手につきませんでした。 Pity is akin to love. 私はその時、生まれて初めて恋心を感じてしまったのでした。誰にも話していません。妻にも。

それでも同級生という事はありがたい事ですね。高校卒業以来、なんども同窓会で彼女に会っていますが、お元気で明るい表情、結婚し、家庭を築き、今は子供や孫に囲まれ幸せである事も確認できているので、こちらの問題は解決済みといってもよいでしょう。ところで、今でも彼女を好きですか、ですって。勿論です。永遠の片思いです。いずれ家内にはTPOを考えて『仮面の』告白をするつもりです。

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