純文学

そうか、もう君はいないのか、城山三郎

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新潮社の本です。城山氏が奥様に先立たれお書きになった随筆のような出版物で、内容としては大半は事実をお書きなさったのでしょうが、一部には彼の創作が入っていると思います。小説として読めばよい、それだけの事。出会い、そして新婚旅行のお話が延々と続くのには、・・・辟易させられた、と一言だけ感想の言葉を残しましょう。

さて、私こと、ちょうど三年になりますが、家内が私の目の前で死にかかる、という、とんでもない体験をしてしまいました。そう、私の家内はまだ生きています。それは2017/02/15 13:15でした。私は内科医、家内は耳鼻科医で、自宅兼診療所で共働きの夫婦ですが、午前の仕事が正午に終了する事は無く、午後一時でも午前の診察の延長です。家内が突然に激烈な胸痛を感じたのです。診察半ばですが、床に崩れるようにしゃがみ込む家内。耳鼻科の診察室はハチの巣を突っついたような大騒ぎです。すぐに隣の内科診察室にいた私が呼ばれました。一瞬、何事なのかと思った次の瞬間には私の循環器専門医魂がフル稼働していました。

意識は清明、頸動脈蝕知、心音正常、ただし、家内は、苦しい・苦しい、と訴えています。突然に胸が苦しくなる病気で代表的な疾患は心筋梗塞、大動脈瘤、肺塞栓、等々に限られ、全てが簡単に死に至る病です。私の手は震え、心も震えていましたが、なんとかこの危機的状況を解決せねばなりません。診察室の患者様方、待合室の患者様方には直ちにお帰りいただき、家内が崩れ落ちた耳鼻科の床は野戦病院のベッドと化してしまいました。つい数分前まではのどかな診療が続き、ある種、私にとっても家内にとっても幸せに満ちた充実した空間だったのに。心電図も正常でした。ならば原因は大動脈解離か肺塞栓か、えっ、でも何故、焦るばかりですが焦ってはいけません。三次救急で助かる患者もいる。頼む、家内よ、助かってくれ。震える手で簡単な紹介状を殴り書きし、救急車を呼ぶ時間も惜しく、分・秒を争って病院に家内を送るのが唯一、家内が助かるチャンスです。

婦長に、あとは頼む、と告げ、私は家内を抱くようにして自宅のガレージに向かいました。愛車のベンツSLKに乗せ、急発進しました。車の道楽でスポーツカーを買っていて思わぬ役立ちかたをしたものでした。国道を幾つもの車をごぼう抜きにして、隣町、岐阜県美濃加茂市の木沢記念病院にしばらくして到着していました。交通事故はまぬがれ、ほっとするもつかの間、家内を抱き、玄関で患者様の群れを押しのけ、通してください・急患です、と叫びながら救急外来へ走りました。

診察室のドアは閉まっていましたが、えい・かまうものか、とドアを開け勝手に入室すると、先生が書類を書いておられました。非礼をお詫びし、状況を説明すると納得され、この間がほんの一分でした。私曰く、解離でしょうか・直ぐに造影CTお願いします、先生も、でしょうね・まだ助かるかも知れない・とにかく診断を急ぎましょう、とのご返事。

病院スタッフの慣れたお仕事ぶりに助けられ、造影CTが数分して出来上がりました。やはり、リークです。解離です。すぐに手術をしないと家内は助かりません。先生曰く、うちでは難しすぎます・手術は出来ません・岐大、名大、名古屋徳洲会、三病院のいずれかを選んでください・すぐに搬送します、との事。私は迷う事なく、徳洲会にします・手配してください、とお願いしました。先生曰く、ですよね・よくわかっていらっしゃる・すぐに手配します・(電話)おっ受け入れ可能です・ではドクターヘリを手配しましょう、と。地獄で仏です。

ところが岐阜県警に電話した先生のお顔が急に曇りました。先生曰く、だめでした・二機いますが二機とも出動中です・時間がもったいない・一か八か救急車で徳洲会にいかれますか、との質問です。私はすかさず、わかりました・救急車でお願いします、と答えざるを得ません。家内の胸痛が始まって何分の時間が経過したのでしょう、若し家内が診断がついても、手術の可能な病院に搬送中に死ぬだけだったとしても、それは仕方のない事。私の表情は冷静でしたが、心の中は嵐です。

二時間ほどかかったのですが、家内はなんとか徳洲会病院に搬送されました。ところが徳洲会では同じ病気の患者様の手術が終了するのにあと一時間かかるとの事、輸血の準備をして、ICUの病室で待機を余儀なくされる私ども夫婦です。せっかくここまでたどり着いたのに・・ICUで・・私の目の前で・・家内は死ぬかもしれない。私の心の嵐は収まりません。家内も覚悟をしているようです。意識は清明です。私は家内に言いました。君は今、死ぬかもしれない・夫婦で最後の会話をしよう・君と巡り合えて幸せだった・賢い優しい二人の娘を生んで育てて医者にしてくれてありがとう・そうだ・ほらこの便せんに遺書を書いてくれ。家内はうなずき、私も幸せな人生だったわ・子供あてに遺産の事だけ少し書いておくわね、とつぶやきながらボールペンを走らせます。

待ちに待った手術室からのゴーサインです。いよいよ家内へ最後の語りかけの瞬間です。絶対に助かる・心配するな・申し訳ない・苦労ばかりかけてきて、と二言、三言、話すのがやっとの私でした。

手術は深夜中、延々と続き予定時刻を一時間過ぎて手術終了のライトです。ドアが開き、手術は無事終了しました・奥様は助かりました・三十分ほど休憩して詳しくご説明いたします、とのお言葉に遂に情動失禁、泣けてしかたありませんでした。

その後の家内の回復は驚異的でした。一週間後はICUを卒業、一か月後には所定のリハビリを終え、後遺症もなく無事に退院できました。当初は毎月が病院通いでしたが、三年たった今は半年おきです。この手術を機会に家内は臨床医を辞めました。25歳で医師になり、63歳まで、38年ほど、一日も休まず働いた耳鼻科医、私のひとつ年下の妻、二人の娘の母、だったのでした。

あの悪夢の日から三年たちました。もう大丈夫だろうと考えて、夫婦はお正月にキューバ旅行の企てに成功しました。リハビリの仕上げでした。妻は元気でした。私達夫婦の心の傷はだいぶ癒えつつあります。そうだね、まだ君は生きている。

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