80年代米国での本格的心臓移植普及時代
におけるささやかな臨床経験
- 日本の心臓移植医療の発展を願って -

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文責  山本内科耳鼻科院長 山本秀平 (2003/9/15)

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筆者は1986年から二年間、米国メルク財団の奨学生として米国にて医師として働く機会がありました。 勤務先はニューヨーク州立大学附属病院のバッファローVA病院(図)です。 病院のご厚意により、予期せぬ思わぬ課題となったのは心臓移植の実地勉強でした。 今から十八年前、日本の心臓移植医療の前夜以前の古い話になります。 米国ではまさにその幕開けという時代でした。 二年間に合計十四人の移植患者さんをつぶさに診察させていただきました。 この文章が現在、移植を待ちのぞむ患者さんの幾ばくかの心の支えとなる事を切に望みます。

さて病院は私が赴任する数年前から心臓移植を始めておりました。 私に急遽与えられたミッションは これらの通院患者さんを外来においてよく診察する、 彼らに定期的に心筋シンチグラフィーを施行しその結果をまとめる、 心筋生検の結果を病理医と検討する (参照)、 病院で定期的に開催される心臓移植の適応候補者検討委員会に出席する、 入院中の患者さんで重症心不全に陥った患者さんを主治医とともに診察、心臓移植の適応について検討する、 などの項目でした。

勤務当初は緊張の連続でしたが、やがて慣れました。 受け持ちとしての責任がなく、時間外にコールされる事もなく、はがゆい面が少しばかりありましたが、 しかし実地医療をつぶさに見た貴重な経験は精神的な財産となりました。 医学・医療は勿論、人の心の機微、冗談が通ずる事などに国境はない事も知りました。

前置きはさておき、やはり心臓移植の成果はほとんどの方で劇的でした。 当時の感動が米国医療に対する畏敬の念を私に今でも与え続けています。 実は上記の十四人の患者さん中、紅一点、若い看護婦さんがいました。 病院の性格上、他の十三人は全員が退役軍人さんでしたが、彼女は実は当病院の職員です。 風邪をこじらせ、ウイルス心筋炎という重症の病気になり、死の淵に立たされました。 心臓移植の適応でした。

当時、心臓移植が当病院で既にスタートしていました。 彼女がドナー登録する間もなく、提供者が現れ、当病院にて手術、術後の経過は順調、職場復帰を果たし、結婚、妊娠、出産と まさに生命が次々とリレーされたケースでした。 地方紙に載り、時の人ともなりました。 (私が赴任し彼女に会ったのはその後でしたが。) また紙面の関係上、割愛させていただきますが、他の十三人の方お一人ずつにも思い出があります。

正直に申しましょう、つらかった事も多い医師生活でした。 実はドナー登録をしても、提供者が現れず、亡くなられた方々の事です。 その数は移植患者さんの数を超えています。 終末医療を断り、静かに息をひき取られた方がありました。 また一方、先駆的医療に望みを託し、 当時製品化されて間もないジャービックセブンという人工心臓の植え込み手術をしたものの結局、亡くなられた方もみえました。

当時は多数の医師から人工心臓は野蛮極まりない医療だと言われていた時代でした。 しかしながら筆者は実は心臓移植こそ歴史的使命を終える日が来る事を、究極の医療として人工心臓が完成する日が来る事を信じています。 そして瞬く間にその医療は世界に普及するでしょう。 人工ペースメーカの歴史がそうでした (参照)。

また移植患者さんも私ども病院職員もドナーとなられた故人のご冥福を祈らずにはいられません。 当病院には年齢、性別、血液型、心臓の重量、摘出時刻、死因の六点のみが知らされていました。 全員が二十代から三十代の若い男性でした。 また全員が銃犯罪ないし交通事故の犠牲者でした。 私ども病院職員にとってドナーの方々は皆、文字通り無名戦士だったのです。

さて当時の事ですがニューヨーク州では東半分はニューヨーク市のコロンビア大学医学部、西半分を私達の病院が担当していました。 ニューヨーク州の大きさは本州に匹敵しますので、守備範囲は日本とは比べるべくも有りません。 当病院の北はカナダのトロント大学医学部、南はペンシルバニア州のピッツバーグ大学医学部がそれそれ拠点病院でした。 お互い、数百キロ以上離れています。 これは日本では考えられない広範囲の診療圏です。

ちなみに当施設では一番遠くから運ばれた移植心は、はるか1,000km離れたイリノイ州シカゴから空輸されています。 また患者さんで一番遠くの方は病院から片道150kmの方で、車で往復六時間を通院してみえました。 歴史ある米国に学べという私の意見からすれば、 日本には暫くは一箇所だけ施設があればよい、との結論になります。

さて、以下に昨年の米国全土の心臓移植の統計が詳しく紹介されています。 私にとってはふた昔前の往時の米国情勢と比較して、数字ひとつひとつが大変興味深い貴重な資料です。
OPTN (NGO) (http://www.optn.org/)
URREA (Michigan Univ.)(http://www.ustransplant.org/heart.html)
UNOS (NGO) (http://www.transplantliving.org/)
当時と比べて総括しますと現在、件数増加に反し、特定病院での件数増加つまり少極化の傾向にある反面、 当事は名前の知られていなかった病院が加わり、間違いなく移植医療の裾野は広がり、一般化しています。 つまり拠点的大病院でも、或いは小病院でも同医療の普及を目指し精力的な努力が払われていると十分に窺い知る事が出来ます。 山は高くなり、その裾野は広がって国境を越えて日本に届いたとも言えましょう。 最高峰スタンフォード大学が昨年は心臓移植が47人、心肺移植は5人と、今も世界をリードしています。 健在です。

また啓蒙活動も精力的であると考えられます。 つまり統計によれば病死からの提供が全米的に増加しています。 日本がまさに今学ぶ点がここにもあります。 尤も今も昔も米国の銃犯罪の悲惨さは日本と比べるべくもありません。 私がバッファロー市に二年間住んでいた間に、市のある牧師さんが玄関に出たところを何者かにいきなり銃殺された事件がありました。 日本では到底、考えられない事です。 このように、華々しい心臓移植という最先端医療も実は裏返せば、狂気の社会に咲いたあだ花の面が昔からありました。 また、何処へ行くにも車がなくては生活できない米国社会の仕組みです。 発達したハイウェー網もひとたび事故ともなれば、即死の事が多いのです。 これら二点だけは全米国民がおのれを恥じ、日本に学ばねばいけない点です。

統計に戻りましょう。 バッファローVA病院での件数は年間三、四人が続いていましたが昨年はウエイティングりストが一名、手術はゼロでした。 穏やかな病棟だったようで、アベリーエリス循環器科部長の奮闘ぶりが目に浮かびます、本当にご苦労様でした。 一方、家内のかつての勤務先、バッファロー子供専門病院で四人の心臓移植後患児が通院中との数字が、 これもまた大変だっただろうと私ども年配夫婦の会話になりました。

References

Yamamoto S, Bergsland J, Michalek SM, Carroll M, Gona JM, Balu D, Carr EA : Uptake of myocardial imaging agents by rejecting and nonrejecting cardiac transplants. A comparative clinical study of thallium-201, technetium-99m, and gallium-67. J Nucl Med 30:1464-9, 1989

Yamamoto S, Bergsland J, Michalek SM: Evolution of right bundle branch block and other intraventricular conduction abnormalities in the transplanted human heart. Jpn Circ J 54: 1122-9, 1990


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