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奥の細道ぼちぼち歩き |
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奥の細道ぼちぼち歩き 今月から『奥の細道』ゆかりの地を訪ねた時の思い出、感想を書きつづったもの を写真とともに紹介します。 『奥の細道』の原文と番号は、久富哲雄全訳注『おくのほそ道』 (講談社学術 文庫)によります。 では、番号が全て埋まるまで、ぼちぼち歩いて行きましょう。 2 旅立ち 現代俳句協会総会の翌日の2013年3月24日(日)、千住を尋ねた。奥の細道 矢立初め」で有名な所である。芭蕉は、ここ千住で奥の細道の旅の最初の句を作 ったのである。 当日は、新暦と旧暦の違いはあるが、奇しくも芭蕉が千住を訪れた3月27日 (元禄2〔1689〕年)に近い日となった。3月27日は今の5月16日である。 では、千住を歩いてみよう。私は、営団地下鉄日比谷線の南千住(荒川区)で 午前10時20分に下車し、千住に足を踏み入れた。この日から東京でもマナカ が使えるようになったので、すこぶる便利であった。 ![]() 南千住駅を出て、通称「コツ通り」という南千住駅から見て斜めの道を素盞雄 (すさのお)神社へ向かって歩く。 ![]() ![]() 素盞雄神社の隣の交番あたりから奥の細道モードに包まれる。 ![]() 素盞雄神社には、午後10時35分到着。奇しくもというか、納得というか、神社 では、この日「第19回 奥の細道矢立初め俳句大会」が開催されていた盛況であ った。 ![]() 素盞雄神社には、楽しい物がある。「1 漂泊の思い」「2 旅立ち」のジオ ラマである。 ![]() ① 「1 漂泊の思い」の一節、 ![]() ② これは「1 漂泊の思い」の一句、 住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、 草の戸も住替る代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸置く。 の「ひな」を指しているのであろう。もちろんこの流れは大川(隅田川)である。 流し雛は、舟で千住大橋まで上った芭蕉たちを暗示しているに違いない。 ![]() ③ 大川(隅田川)に掛かる千住大橋である。 ![]() ④ ここで一番重要なのがこれである。「奥の細道首途(かどで)」の碑である。文政3 (1820)年建立。奥の細道出立から131年後のものである。これはレプリカだという。 ![]() この碑には「千寿といふ所より船をあがれば・・・」のあと「行くはるや鳥啼 き魚のめはなみだ」の矢立初めの句が刻まれ「亡友巣兆子翁の小影をうつしまた われをして翁の句を記せしむ 鵬斎老人書」とある。 「亡き友巣兆が、芭蕉の坐像を描き、私亀田鵬斎が芭蕉の句を書いた」という のである。 巣兆は当時の高名な俳人であり、画家である。鵬斎は、当代きっての碩学であ り、能書家であった。 ![]() 碑か尋ねられたので、上に述べたよ うなことを答えた次第。では、左の 笠は何か聞かれ、ついいい加減なこ とを言ってしまった。失礼いたしま した。 境内は、桜、花桃などが、咲き競 い、句会の会場としてふさわしい雰 囲気を醸し出していた。 午後10時49分、神社を後にする。 神社を出れば、千住大橋はすぐだ。向こうの方に見えている。 道路は、日光街道(国道4号線)。 ![]() 千住大橋に着いた。橋には単に「おおはし」とだけあった。 ![]() 千住大橋を渡る。下の橋詰テラスに「おくのほそ道 旅立ちの地」書かれてい る。芭蕉、曽良の旅姿の絵も見える。今回のハイライトである。 ![]() 午前10時55分。大橋を越え、足立区に入る。大橋を左に行くと大橋公園があ る。「おくのほそ道矢立初(やだてはじめ)の碑」である。史跡巡りをしている 人もちらほら。 ![]() ![]() この絵は、蕪村の『奥の細道画巻』の「旅立ち」の図の模写である。 ![]() ![]() ちなんだものがたくさんある。 勉強もできる。 僕は、この椅子に腰を下ろしてし ばし休憩。 ここから橋をくぐって右の方へ行 くと「千住大橋際 御上り場」があ る。芭蕉たちが舟を降りた所である。 ![]() 波の音が聞こえる。ドブの臭いがかすかにしてくる。橋の下をくぐる。 ![]() 千住大橋の下から、芭蕉たちが深川から舟で来た方向を、私はしばらく眺め ていた。(上の写真) 御上り場で舟を降り、芭蕉と曽良は、見送りの人たちと別れ、「前途三千里」 の旅の第一歩を踏み出したのである。『奥の細道』に曰く。 千じゆと云ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、 幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。 行春や鳥啼き魚の目は泪 是を矢立の初めとして、行く道なをすゝまず。人々は途中に立ちならび て、後かげのみゆる迄はと見送るなるべし。 そこで、私も芭蕉と曽良が歩いた日光道中(当時の呼称)を早速歩き始めたの である。 ![]() 至千住大橋 私の道順2 下の写真は、今、日光街道と呼ばれる国道4号線。右へ行けばは先ほど越えた 千住大橋である。渡った向こうが旧日光道中である。 ![]() 下は「千住奥の細道プチラス」。11時19分。 ![]() ![]() ろには、大きく「千住宿奥の細道」 とあるのですぐわかる。矢立初めの 芭蕉の像もある。 ![]() の俳人・為成菖蒲園)」の碑もあ る。 ![]() 商店街の名前を変えて、荒川の土手 近くまで続いている。 ![]() 「鮎の子の白魚送る別れ哉」の碑。 この句は、『奥の細道』の出立の 時に、弟子たちとの別れに臨んで作 ったが、『奥の細道』に入れるには 格調が低いため見送られた。 その結果「行春や鳥啼き魚の目は 泪」となったのである。 この施設の中を見ようと思ったの だが、展覧会終わり、彫刻などが搬 出中だったのでそれはかなわなかっ た。 ② ![]()
![]() 由緒ありげな通りに出た。ここで旧 日光道中と分かれ、墨堤通り左に歩 き始めた。これは、千住発祥の地と 言われる千住神社の芭蕉の句碑を訪 れるためである。 左右に走っているのが墨堤通り。 ここを向こうに渡り、左へ曲がっ た。旧日光道中は、真っ直ぐ続い ている。③ ![]() ![]() 千住神社の「ものいへば唇さむし秌(あき)の風」の芭蕉の句碑。慶応2 (1866)年に建てられた。 ![]() ![]() 中へもどった。 先ほどの旧日光道中を墨堤通りへ 折れずに真っ直ぐ行けば、ここに出 る。 目の前の広い通りを越えて旧日光 中は手前に続いている。 ⑤ ![]() 千住仲町から、本町センターに変わ る。 本町センターを歩いていたら、千 住宿問屋場・貫目改所跡が、左側に あった。問屋場は元禄8(1695) 年、貫目改所は寛保3(1743)年に できた。従って、元禄2年3月27日 にここを通った芭蕉は、見ることが ![]() わけである。 ⑥ 問屋場・貫目 改所跡 ![]() 問屋場・貫目改所跡を過ぎ、歩いていたら、今度は右の路地に入るとすぐ先に 森鴎外の旧居跡あるというので、見て来た。 鷗外の父の森静男は津和野藩主の典医であったが、明治維新後、東京に出て、 千住で医院を開業。名を橘井堂と称したそうである。 鷗外は勤務先の陸軍病院までここから人力車で通ったとのことである。 ![]() 12時31分。日光道中の名が本町センターから宿場通りに変わる。ここから観光 客が多くなった。次の目的地は、千住本氷川神社である。ここにも芭蕉の句碑が あるのだ。 ![]() コンビニの角を左に曲がった突き当りに、千住本氷川神社はあった。 ![]() 句碑には芭蕉の 春も漸けしきととのふ月と梅 が刻まれていた。文久3(1863)年の句碑の再建(平成3年)という。 この句の眼目は「漸(やや)」というレトリックにある。 完全な春ではないが、春が到来したことを喜び、なおかつ完全な春を待ち遠しく思う 気持ちがさりげなく「漸(やや)」を介して表現されている句である。 12時40分、氷川神社を後にし、日光道中をなおも進む。 ![]() がいくつも嵌め込まれている。さす がに芭蕉の姿はない。踏むには恐れ 多いのか。 ![]() 千住宿時代の木戸が復元されていた。かくれんぼの銅像がある。 南千住駅を出て2時間半、さすがに少し疲れた。ここでしばし休息。おーいお 茶で喉の渇きを癒していると、なぜか「行春や鳥啼き魚の目は泪」の一句が思わ れた。 「旅好きの芭蕉は、さぞかし『魚の目』には悩まされたことだろう。そう言え ば、『魚の目』のことを漢語では『鶏眼』とか言ったな。『魚の目』という言葉 も『鶏眼』という言葉も、芭蕉の時代にはあったから、芭蕉もきっと知ってたに 違いない。芭蕉も言葉遊びが好きだからなあ。日光では『あらたうと青葉若葉の 日の光』てな句も作ったな」などと、次から次へと取り留めもないことが浮か んできた。 「それにしても、我ながら面白いことを考える物だ」と感心して、また歩き出 した。 ![]() 旧千住宿には、当時から続く店もある。「絵馬屋」とはいい。 ![]() 千住宿最後の芭蕉句碑がある安養院へ行こうと思い、旧日光道中から左に少し 外れる。道中、桜が満開だったが、安養院の桜はことに見事だった。 ![]() 安養院には「ゆく春や鳥なき魚の目は泪」の句碑がある。 ![]() ![]() 旧日光道中に戻って荒川の土手の方へほんの少し行くと、道標があった。 ![]() ![]() 真っ直ぐ行けば旧下妻道。左へ行けば旧日光道中。もちろん私は左折した。 しばらく行くと荒川の土手へ上るコンクリートの階段が見えた。 階段に座って、黒い服を着た白い髭の老人が、握り飯を食べていた。 ![]() ![]() 13時7分。ついに荒川に到着! 左に見えるのが千住新橋。日光街道である。 この橋を越え、さらに6キロほど行くと奥の細道にある「其の日漸(ようよ う)草加と云ふ宿にたどり着きにけり。」の草加だ。 ![]() 荒川を見て、今回の取材は終わった。私は、旧日光道中を北千住駅へと引き返 した。北千住駅には、13時22分に着いた。 ![]() 37 一昨年、2010年8月に有史会(歴史の研究会)の面々越前に旅したときに訪れた。 山が白い岩を露出させている所を、一昨年の8月に亡くなった会員のO氏と登った。 ここは、奥の細道の中でも次の句で名高いところである。 芭蕉が北支ともに那谷寺を訪れたのは、元禄2(1689)年8月(旧暦)初旬であった。 奇石さまざまに、古松植ゑならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造りかけて、殊勝 の土地也。 石山の石より白し秋の風 ![]() 彼は癌の治療中であったが、ぜひとも今回の旅に参加したいと直前に言ってきたのであ った。神仏に病気の平癒を祈ることはもとより、いつまでも歴史の研究者として現役であり たいという強い思いがあったのであろう。 何年ぶりかの猛暑をものともせず、彼は元気であった。仏様にいつまでも手を合わせて いた彼の後ろ姿が印象的であった。 それにしても、「石山の石より白し秋の風」とは、一体どんな風だろうか。秋は白秋と言わ れるように、季節の色が白であることは言うまでもない。 写真のように白い岩山を穿って何体もの仏が祀ってある。岩山自体が仏であるとのこと のアナロジーに違いない。そこは、現世の苦しみを超えた、現世に作られた仮の彼岸であ る。 芭蕉は、その岩山の石の白さより、白山(奥の細道では「白根が嶽」)から吹いて来る秋 風の方が白いと言ったのだ。 白山は那谷寺の開祖、泰澄法師が開いた。泰澄法師は、白山の御前峰に女神イザナミ ノミコトを見、白山に十一面観音を見た。そして、白山信仰を始め神仏習合の祖となった。 「石山の石より白」い秋の風は、その神仏習合の霊山、白山から吹き下ろす風なのだ。 それは、現世=此岸ではなく彼岸からの風なのである。 芭蕉は、那谷寺に吹く秋風に、深い無常を感じたのである。 ![]() 那谷寺の門前の茶店で昼に蕎麦を食べ、その日出来たという那谷寺特製の胡麻豆腐を 買って家への土産とした。その夜早速食べたが、大変おいしかった。 38 山中温泉 未 39 全昌寺 未 40 越前の境、吉崎の入江を、舟に掉さして、汐越の松を尋ぬ。 芭蕉は、この後「此の一首にて数景すけい)尽きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の 指(6本目の指)を立つるがごとし」と言い、「吉崎の入江」の句を作らなかった。 ![]() ![]() 吉崎の入江(現在の北潟湖) 左の日本海に面した所にあった松を、汐越の松と言った。今は松が多すぎるように思え る。 吉崎の入江は浄土真宗中興の祖、蓮如上人のゆかりの吉崎御坊跡(御山)から見渡せ る。 御山へは念力門(下の写真)から登った。かつて蓮如上人が北陸布教の拠点とした吉崎 御坊は、今は、東西本願寺の共同管理する浄土真宗の聖地である。 ![]() 芭蕉は結局、松岡(奥の細道では丸岡)の天龍寺まで見送りについてきた金沢の北支 と、発句(芭蕉)と脇句(北支)を書いた扇を2つに引き裂いて、発句の部分を北支が、脇 句の部分を芭蕉がそれぞれ分け持つことになる。 奥の細道に載っているのは、次の芭蕉の発句である。 物書て扇引きさく 扇=末広を引きさくという表現は、尋常にあらず! |
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