眼下に長閑な町並を一望できる、見晴らしの良い高台。 ここから見る夕焼けが好きなのだと、いつか彼女が口にしていたのを彼は思い出す。 森の中、道なき道を踏みしめなければ辿り着けないこの場所は、彼女のお気に入りの場所だ。 そして今。 彼女の好きな夕陽に照らされて伸びる、長い二つの影。 「―――やるぜ、俺は」 彼の言葉に、彼女は何も答えない。 毒々しいまでの夕焼けに紅く染め上げられた町を見下ろす場所。町の喧騒が届くには遠すぎるこの場所に、沈黙が落ちる。 どこからか鳥の声。巣に帰るのだろうか。入れ替わるように夜行性の獣が起き出す背後の森は、決して寝静まる事は無いのだろう。 風が、木々を揺らす。鳥の声。獣の声。ここに人は、いない。 元から返事など期待していなかったかのように、彼は勝手に言葉を紡ぐ。 「俺にはもう……それしか、道が見えねェんだよ」 彼女は、答えない。 「わかってくれなんて、言うつもりはねーよ」 彼女は、答えない。 「だが、テメェも好き勝手やったんだ。俺も、好きにやらせてもらうぜ?」 彼女は、答えない――― 下りた沈黙に、彼もそれ以上の言葉を口に乗せることはなかった。 宵闇迫る眼下の景色をただ黙って見つめる。沈む夕陽は次第に光を失い、空には星が瞬き始めていた。 拡がる薄闇の中で、家々には灯りがともる。喧騒もなく穏やかに夜を迎えたその街は、まるで平穏そのものを象徴するかのような――― だがもう、その平穏が自らに訪れることはない。 未練があるわけではない。後悔をするつもりもない。 未練を残すような平穏は、すでに踏み躙られた後だ。今になって気付く、あの時間こそが平穏そのものだったのだと。それをみすみす失ってしまった事こそが、彼の生涯における最大の後悔だ。 今となっては未練を残すものなど何も無く、この先の行動に後悔など付き纏うはずもない。 失ったものはあまりに大きく、胸の内の空虚を埋める術を彼は知らない。 いつしか内に巣食っていた黒き獣の呻きは止まず、飢えが満ちる事もない。 それは、彼女を前にしてより一層酷くなっただけだった。 そしてより一層、これから行おうとすることが酷く正しい事のように思えてきた。 「―――じゃあな」 一言、別れを告げて。 夜の帳が下りた森の中へと、彼は足を踏み入れる。彼女を残して。 振り返ることは、しなかった。 epilogue → ('09.06.27 up) ![]() |