ふと眠りから意識が浮上する。 重い目蓋を億劫ながらも持ち上げたがしかし、目の前に拡がるのは闇。どうやらまだ真夜中らしい。静まり返った外から、獣や虫の音が微かに耳に届く。 こんな時分に急に目が覚めた理由はわからない。眠りが浅かったのだろうか。 しかし疑問への回答を見出すよりも先に、重い目蓋が下りる。考えるのも面倒で、たまにはこんな夜もあるのだろうと、夢うつつに思いながらは腕の中の温もりへと無意識に擦り寄る。 少しだけ肌寒い季節。人の体温は心地良い。 もうすっかり慣れてしまった腕の中の存在。あまりにもしっくり収まっているものだから、最初から自分専用の抱き枕として存在していたのではないかと考えた事もある。 うつらうつらと。意識が落ちていくまま睡魔に身を委ねようとした瞬間だった。 胸元に覚えた濡れた感触に、ぴくりとは身体を捩らせる。 「ん……ねむ、から…やだ……」 「誘ったのはテメェだろうが」 誘ってないし、と反論したかったが、舌が上手く回らず、もごもごと口の中で言葉にならない声を発しただけだった。 聞こえていたとしても、そんな反論には耳も貸さないだろう。抱き枕のくせに。第一、彼を抱き枕にしたのはではないのだ。むしろ逆だ。 未だ覚醒しきらない頭でぼんやりと、もしかしたらが目を覚ますよりも先に起きていたのではないかとそんな可能性を思いつく。彼が先に起きたからこそ、その気配を感じ取って目が覚めてしまったのではないか。 とは言え、そんなことは今更どうでもよい話であって、こうなってしまえばには「諦める」という選択肢しか残されていない。 胸元に幾つも口吻けを落とされ、仕方無いとばかりに彼の身体に回した腕に少しだけ力を込める。それは、承諾の意。 寝不足になったらコイツのせいだと、責任転嫁だけは忘れずに。 空に祈りを きっかけが何だったのか、実のところは未だに知らない。当の本人である高杉に話す気が無い以上、聞いても無駄だろう。そしては無駄なことは極力しない主義だ。 気にならないと言えば嘘になる。けれども日常からかけ離れた状況で、通常の神経を保つのがどれほど困難か、も身に染みてわかっている。もしかしたらそのせいなのかと思い至ってしまえば、問い質す事などにはできなかった。 何時頃からだったろうか。初めは、夜這いかと思ったものだ。自意識過剰かもしれないが、夜更けに布団の中へ忍び込まれれば、誰だとてその可能性を疑うだろう。だから力の限りに殴ったところで自身に非は無いはずだ。実際、殴られた高杉自身もこれについては今でも怒る気配を見せない。 その時はただ一言、「眠れねェんだよ」と。それだけ口にして、無理矢理を抱きすくめて布団の中へと潜り込んだのだ。 眠れないと言った割にはすぐに寝息を立て始めた高杉に対して何の冗談かと思ったが、どうやら眠れていなかったのは事実のようで、翌日、鬼兵隊の一人がこっそりと教えてくれたのだ。元々不眠気味だったようだが、最近では更に酷くなったらしい、と。 横柄な性格をしているくせに何て繊細な神経をしているのかと、呆れたのが半分。残りは、同じく鬼兵隊に加わっていながらそんな事実にまるで気付いていなかった自身への苛立ちと、毎夜毎夜訪れるくせに、人を抱き枕扱いするだけで何もしてこない高杉への苛立ちだ。 別に、高杉とどうこうなりたいわけではなかった。けれども、自分は女で、相手は男で。いい年をした男女が同じ布団で寝ていて何も無いなど、まるで自分に女としての魅力が無いみたいではないか。 その不満が伝わったのかどうか。初めて抱かれたのは、高杉がの布団に入り込むようになって十日も経った頃だろうか。要は性欲の捌け口なのだろうが、愛だの恋だの、薄っぺらな嘘を口に乗せられるよりは余程わかりやすいし、その頃には妙な情が移ってしまったものだから、まぁいいかと、状況にずるずると引かれるままに今に至っている。 母性本能とでも言うのだろうか。幼子が母親に無条件に懐くように抱きつかれると、無防備な寝顔を晒されると、次第に苛立ちも消え失せてしまう。 いい年をした男が一人では眠れないなどと、余程の出来事があったのに違いない。守ってあげたいなどと、柄にもなく思ってしまうのだ。高杉に対して。 お互いに、らしくない、とは思う。けれどもここは戦場。本来の自己など消え失せてもおかしくはない。ただひたすらに、他人の体温に安堵したいだけなのかもしれない。とて、いつの間にか高杉がいないと落ち着いて眠りにつけなくなってしまっているのだから。慣れとは実に恐ろしい。 欠伸を噛み殺して、ぺたぺたとは廊下を歩く。現状は呑気に構えていられる状況などではないのだが、いつもいつも気を張り詰めていたのでは本当に神経がやられてしまう。 目尻に浮かんだ生理的な涙を拭いながら、それでもは周囲の緊迫感をひしひしと感じていた。 戦況は、一言で言うならば『最悪』だ。むしろ、それ以外の言葉など必要ないほどに、最悪の上に最悪を塗り重ねたような状況だった。 人間に対する天人の戦力差は圧倒的なものだ。おまけに幕府はあっさりと天人に阿ってしまい、逆にこちらへと刃を向けてくる。自分たちが一体何のために戦っているのか、これではわからなくなりそうだ。実際、戦意を削がれた者も少なくない。 そんな状況だから、いくら一部の人間が強者として名を馳せようとも、それが戦況を覆す要因になるかと言えば正直には心許無い。口に出して言えるはずもないが。 最悪が、日常。 鬱屈とした空気から逃げたくて、ぺたぺたと足の向くままに縁側へと出る。 柱の一つに身を凭せ掛け、目を閉じる。外の爽やかな風をその身へと受ければ、自分が今一体どこにいるのか、一瞬忘れそうになる。それほどまでに、外の世界は平穏そのもの。 今の自分が正しい事をしていると言える自信が、実のところには無い。けれども何もしなければ後悔するのだろう。だからは、今ここにいる。 穏やかな外の世界。相反して緊迫した気配がざわりと忍び寄る。いい予感などまるでしない。と言うよりも、『いい話』があった例など、この戦場では一度も無い。 だから、今日のこれも、決して『いい話』などではないだろう。それを当たり前のこととして、はゆっくりと目を開けた。バタバタと、焦った足音が近付いてくる。 「―――どうしたの?」 「あ、さん! 高杉さんはどこに!?」 息せき切って駆けてきた男は、鬼兵隊に属する、顔見知りの一人。 尋常でないその様子に、只事が起こった訳ではないことを悟る。おそらく、鬼兵隊絡みで。 彼の問いに答えるのは簡単だ。ただの一言で済む。 けれどもそれを口にしなかったのは、何らかの予感があったためだろうか。首を横に振って、は柱から身を起こした。 完全に血の気の引いた顔で、男はあからさまに動揺する。おそらく、彼の手には余る事態なのだろう。そして、急を要する事態。 迷ったのは一瞬。 「で? 何があったの?」 「そ、それが……昨日の不明者が一人、今朝方戻ってきまして」 これを、と男が差し出してきたのは、一枚の紙。血に汚れぐしゃぐしゃに握られた跡はあるが、書かれている文字を判別できないほどではない。 昨日の不明者とは、戦いの折に行方知れずになった仲間のことだろう。薄情なようだが、それは日常茶飯事。しかしその一人が戻ってきたとなれば、話は別だ。渡された紙に一度目を通し、中身を確認するように再度最初から読み直す。だが何度読んだところでその内容が変わるわけではない。 最悪が、日常。 日常になってしまえば、それは最早『最悪』ではないのだと、思い知った。 現に今、『最悪』の事態が目の前に突きつけられている。知らず手に力が篭り、手の中の紙がぐしゃりと歪む。 だがそれと同時に、脳が素早く冷静に状況を整理し、これからの行動案を次々と弾き出しては却下していく。生半可な対応で済む話ではないのだ、これは。 目を閉じ、弾き出された最善策に覚悟を決めて、はゆっくりと目を開けた。 「晋助には伝えたらダメよ、この事は。絶対によ」 「で、ですけど!」 「私が行くわ。大丈夫、どうせ鬼兵隊のリーダーが誰かなんて、向こうは知らないわよ」 軽い口調で男を宥めながら、手の内の紙を躊躇い無く破る。万が一にでも他の誰かに、高杉に見られようものなら、これからが起こすつもりの行動が無意味になりかねない。 書かれていた内容は、どこかの講談にでもよくあるような、そういう意味ではありふれたものだった。要約すれば、鬼兵隊の仲間は預かっている、助けたければリーダーが一人で来い、とのことだ。随分と時代錯誤な事だ。おまけに、罠である事も見え見えだ。馬鹿正直に行ったところで、捕らえられている仲間共々皆殺しに決まっている。いや、捕らわれた仲間はすでに殺されている可能性だとてある。 それでも、これを高杉が知ったら、躊躇うことなく行くのだろう。仮にも人の上に立つ人間が軽々しく動かないでほしいものだが、高杉とはそういう人間だ。 だから、絶対に知られてはならないのだ。特に、今のこの戦況下では。 「今、この状況で晋助を失ってみなさい。鬼兵隊は単なる烏合の衆と化すわよ」 「…………」 「必要なのよ。一人でも多く死なせずに済ませるためには、まず晋助を死なせるわけにいかないの」 見え透いた罠に、向かわせてはならないのだ。 けれども、万が一ということがある。万が一にでも、誰か一人の命で、他の仲間が助かる可能性があるのならば。その『誰か』は、高杉でなくてもいいはずだ。 名指しで無かった以上、相手側は誰が鬼兵隊を束ねているか知らないはずだ。ならばが赴いて口先三寸で騙しきればいいだけの話。これでこの先当分は、鬼兵隊のリーダーとして高杉が目を付けられる心配もなくなる訳だ。 我ながら名案だと、は胸中で自画自賛する。結果を見届けることができそうにない事だけが、少しばかり残念だが。 不意に脳裏に過ぎったのは、部屋に残してきた高杉のことだった。 まだ眠りについている高杉を起こさないように苦心して、布団から抜け出してきた。中身に比べて寝顔は存外に幼さが残っていて可愛いものだと、今朝方はそんな呑気な事を考えていられたと言うのに。 ―――最後になるのならば、もう少しゆっくり見ておけば良かった。 そんな考えが過ぎり、今更になって気付く。高杉のことが好きなのだと。 皆のためと嘯いてみせたところで、結局のところは高杉を死なせたくないだけだ。 この行動を後から知ったら、高杉は怒るだろうか。怒るんだろうな、とは小さく苦笑を漏らす。他人を突き放すように見せかけて、冷徹になりきれない脆さを持っているのだ。だからこそ、ますます守りたいと思ってしまう。それがたとえ、自己満足にすぎない行動なのだとしても。 感傷を振り払うように、一度首を振ると、束の間目を閉じる。 自分がいなくなったら、高杉は一人で眠る事ができるのだろうか。それとも、他の誰かを見つけるのだろうか。 目を開け、見上げた先。何事も無いかのように晴れ渡った午前の青空が、目に眩しかった。 → ('09.06.27 up) ![]() |