magnet 1



 
しとしとと、細かな雨が夜の街に降り注ぐ。音を立てることもなく、ただただ、物静かに雨は闇に溶け、闇は何もかもを覆い隠す。
夜毎通うこの道には灯りも無く、足元も判然とせず決して慣れることはない。月明かりさえもない今宵であればそれは尚更。けれども自然と速まる歩調。傘に落ちる雨粒も、地面を蹴る足も、音を立てることなく。裏腹に逸る心は抑えきれるものではない。
暗く何の灯りもない夜道が、己の先行きを暗示しているようだとも思う。
それでも構わなかった。
いつ何が起こるかわからない世の中。明日が確定されたわけではないこの身。
ならば刹那の恋に身を任せてもいいではないか―――たとえそれが、世間からは赦されたものではない恋なのだとしても。
恋心など、他人に強制されるものではない。駄目だとわかっていても込み上げる想いは抑えきれず、むしろ尚一層に想いは募るばかりだった。
いつかは終わりが来る恋だとわかっている。だからこそ後悔はしたくない。
そう。終わりは来るのだ。
不意に足を止め、振り返る。尾行はされていないだろうが、確証は持てない。この雨と闇が己の姿を隠してくれるように、背後にいるかもしれない人物を覆い隠してしまう。
最近、薄々と感じる周囲の空気の変化。思い込みなのか、それとも感付かれたのか。
どちらにせよ、終わりが近いことを直感が訴えてくる。
わかっている。わかっていた。
けれども終わってほしくなどない。この恋を奪いあげられたくなどない。
曖昧な不安から逃げ出すように夜の街を駆け出す。本当に逃げ切れるはずなどなく、それは一時的な逃避に過ぎない。理性ではわかっていても、感情がそれを拒絶する。誰にもこの恋心を否定させはしない。いつかは終わるのだとしても。決して赦されることのない想いなのだとしても。
 
―――?」
 
闇の向こうから、聞き慣れた声で驚いたように名前を呼ばれる。
低く心地好い、誰よりも愛しいその声の主。
一時的な逃避でも構わない。刹那の恋でも構わない。ただただ、叶うことならばこの想いに永遠と溺れていたい。
手から滑り落ちる傘。雨に濡れることも構わず、愛しい相手の胸へと飛び込む。
頬を冷たく濡らすのが雨粒なのか、それとも別の何かなのか。彼女にはわからなかった。
 
 
 
 
 
 
服を脱ぐどころか、声をかけることも、その名を呼ぶ暇さえ惜しむように、性急に口吻け、抱き合い交わり合う。
それでもまだ足りぬとばかりに、互いの存在を腕の中に確かめるかのように抱き合う。その体温が、依る縁だった。
幾度も抱き合い汗ばむ身体を、構うことなく抱き締める。一分一秒でも離れていたくはない。それは切実な願い。
いつかは来る別れ。それはあまりにも明確な未来。なればこそ、今、求めずにはいられない。この身体に二人の証を刻み込みたかった。
優しく髪を梳かれる、ただそれだけのことがたまらなく幸せ。
このまま時が止まってしまえば良いと、何度思ったことか。聞き届ける者のいない祈りは宙に舞い、行き場を失って涙を落とす。
世間からは赦されるはずのない恋。こうして寂れた廃屋で繰り返すしかない逢瀬。終わりの見える関係。
それでも、一度たりとて後悔などしたことはなかった。
ただただ、人を愛した。それだけのことで何を咎められることがあるのだろう。自分が真選組に属する人間であり、相手が過激派攘夷浪士だという、それだけの―――たったその肩書き一つが、この関係を破綻させてしまうのだ。
身一つで互いに手を取り合えば、或いは別の道もあったのだろうか。けれども互いに、その肩書きだけは失うわけにいかないのだ。それが各々の矜持であるならば。その矜持を持った相手を愛したのだから。
捨てることもできず、諦めることもできず。どちらも手にしていたいとは虫のいい話で、隠れて逢瀬を繰り返しながら、いつかは来る終焉に怯えている。
一体、何の罪を犯したというのか。否。罪を問われることなど何もしていない。
 
「……にも、してないよね?」
?」
 
耳元で名を呼ばれる。それだけで身も心も蕩けそうになるほど心地好い。
この男が、高杉が自分に向けてくれる全てが、心地好くて愛しくて、ならない。
出会わなければ良かったなどと、思うことすらできないほどに。
 
「私、間違ってなんかない、よね…?」
 
その問い掛けに返る言葉はいつも同じ。わかっていて繰り返すのは、その言葉に安堵したいからだ。たとえ他の誰に否定されようとも、ただ一人、高杉さえ肯定してくれるならば、それだけでこの不安は拭われる。
繰り返し、繰り返し。
進むことも戻ることもできず、溺れた恋に頬を濡らすしかできない女の、それは端から見れば滑稽な姿なのだろう。
 
「間違ってなんかねーよ」
 
濡れた頬を撫でる指先の優しさに、胸が締め付けられるようで更に涙が零れ落ちる。
自分がこれほど弱い人間だとは思わなかった。
縋るようにその身体に腕を回せば、高杉もまたの身体を強く抱き締める。
痛いほどの抱擁が、たまらなく幸せだと思えた。それが薄氷の上にある幸福なのだとしても。
 
「間違ってなんかねェんだよ。お前も、俺も」
 
繰り返し、繰り返し。
まるで呪文のように、その言葉は心を支配する。二人とも間違ってなどいない。
間違ってなどいないから、この先に何が待ち受けていようとも後悔などしない。別れを選ぶことの方が、余程後悔することになる。
顔を上げれば、闇の中でも視線がぶつかる。その目に映るのは、どんな感情なのだろうか。
自分に向けられる愛情。それは疑うべくもない。それに加えて、揺れる哀情と不安。涙が零れてもおかしくないようなその表情は、高杉には似つかわしくないと思う。
何が彼をそんなにも不安にさせるのか。わかっていてもそれを取り除く術を、は持たない。持ちたくとも、持てるはずもない。
 
「幸せ、だよ……私、幸せだから……だから」
 
そんな顔しないで、と。
込み上げる嗚咽に、続けるべき言葉も笑顔も消えてしまう。
泣きたいわけではない。本当に幸せだと思っている。愛した相手に愛されて、それはこの上なく幸せなことだ。
高杉にもそう思ってほしかった。僅かでもいい。幸せだと思ってほしかったのだ。自分だけが幸せならば、それは偽りの幸福だ。
溢れる涙に、こんなに泣いていては呆れられてしまうと懸命に堪えようとする。
そんなを、高杉は何も言わずに抱きしめる。それが高杉の返事であるかのように思えて、もまた抱きしめ返す。愛しているという思いをありったけ腕に込めて。
そのまま口吻け合い、互いを貪り、再び行為へと耽っていく。
まるで不安から逃れるかのように。
未来に確実に訪れる「何か」。覚悟はしている。それでも尚、それが少しでも先のことであるよう願わずにはいられなかった。
 
 
 
 
 
 



 
白み始める空。
夜明けを迎える世界に対して、自分の世界は夜が明けなければいいのにと、人気の無い街を歩きながらはそんなことを思う。
夜が明ける時。それは何もかもが終わる時なのだろう。
そう。
 

 
名を呼ばれてハッと顔を上げる。
自分が在るべき場所。真選組屯所。
現実に引き戻されたそこには、鬼の副長と怖れられるその人が立っていた。
 
「話がある」
 
短く抑揚の無い声。突き刺さるような冷たい視線。それだけで、言わんとしていることがわかるようだった。
最早残っていない、抱き合った温もり。それでも縋るように、自身の身体を無意識の内に抱きしめ。
ああ、とは全てを諦める。
 
 
 
 
夜明けが、来てしまった。  
 



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('09.09.06 up)