magnet 2 まとわりつくように音も無く降り注ぐ雨は、好きか否かを問われたならば、間違いなく嫌いだと答えるだろう。 だが、今この時に限っては、全てを静かに包み隠すかのようなこの雨が、決して嫌ではなかった。 雨が、夜の帳が、全てを覆い隠してくれる。 人目を忍んでの逢瀬など、柄ではないと思っていた。だが現実にはこうして雨の中、女を抱き締めている。世間の目から隠れるようにして。 腕の中にいる女―――の頬を濡らすのは雨か涙か、その両方か。 出会い、恋に堕ち、次第に笑顔を失っていった女。不安に涙するか、快楽に溺れるか。けれどもそんなが愛しくてならなかった。自分の存在が彼女を変えたのかと思えば、傲慢な嗜虐心が頭をもたげてくる。 だが同時に、そんな彼女に心底溺れきっている己をも自覚する。 手放すことなど到底考えられぬ程に―――自分が攘夷浪士と呼ばれる存在で、彼女が真選組の隊士である事実など、二人を裂く理由にはならない。 しかしいくら当人がそう思っていようとも、周囲がそれを許しはしない。 他人の許しなど必要ない。言ってしまうのは簡単だが、現実にはこうして世間から隠れるように逢瀬を重ねている。 なんて、矛盾。 全てを捨てることもできず、しかしこの想いもまた、軽々しく投げ出せるものではない。そうであれば最初から相手を恋うこともなかったろう。 天秤にかけられない矜持と恋情。何もかもを承知の上で抱き合ったことに、後悔などあるはずもない。 ただ。ただ一つ。 未来を諦め、目先の快楽に溺れるの姿が、愛しくも哀しかった。 まるで離れることを怖れるように、はぴたりと身体を寄せてくる。 暗闇の中にあって、鮮やかに目に映るのは白い裸体。 夜更けの廃屋。街の外れにあるこの場所は闇に閉ざされ、二人の姿を隠す。場所などどこでも良かった。誰の邪魔も入らず二人きりになれるならば、朽ちかけた廃屋で抱き合うことに何の躊躇いも無かった。 抱き締め、微かに震えるその身を宥めるように髪を梳いてやる。 怯えるようなその様子。何に怯えているのかは火を見るよりも明らかだ。 この関係が日の下へと引き摺り出される日が、近い。 いつまでも隠し通して逢瀬を繰り返せるほどに甘い組織ではないはずだ。真選組を過小評価するつもりはない。むしろ有能だ。だからこそ自身の目的のためには邪魔となる。 既に、感付かれているのかもしれない。今のこの怯えようと、雨の中駆け寄ってきた時の切羽詰まった様を思い返せば。 「……にも、してないよね?」 「?」 不意に耳に入った、か細い声。 ともすれば聞き逃してしまいかねない程に小さな声を、しかしこの耳は拾い上げる。その甘い口唇が紡ぐどんな言葉も、一言一句、取り零さないように。 差し出される全てを余すところなく受けたい。それだけの存在に溺れているということで、自嘲を禁じ得ない事実ではある。 「私、間違ってなんかない、よね…?」 瞳から溢れた透明な雫がひとつ、その頬を伝う。 最後に笑顔を見たのはいつだったろうか。最早その笑顔も思い出せないほどに時は経ち、また振り返る余裕もない。ただ目の前にしがみつくだけで精一杯なのだ。 それはもまた同じことだ。口にされたのはこれまでも幾度となく繰り返された問い。答える言葉を高杉は一つしか持たない。そしてそれが、彼女が欲している答えだ。 「間違ってなんかねーよ」 泣かせてばかりだと、掬いとった雫はどこまでも澄んで透明だ。まるでの想いが正しいものであるとの証明のように。 間違いなどであるはずがない。 後から後から零れ落ちる涙を掬い取り、目尻へと口吻けを落とす。泣かせることしかできないくせに、泣いてほしくなどないと願わずにいられない。それは身の程を弁えない願いなのだろうか。 だが彼女を泣かせるのは、決して自分ばかりではないはずだ。この世界が間違っていなければ、或いは泣かせずにすんだのかもしれない。 自分たちを否定するこの世界。ただ愛し合っただけの二人を否定しようとするこの世界こそが、間違いなのだ。 だから。 「間違ってなんかねェんだよ。お前も、俺も」 それは或いは、自身に言い聞かせるための言葉なのかもしれない。 その身体をきつく抱き締めれば、縋るように腕が回される。 愛しくてならない。決して離したくなどない。望まれたならば全てを与えることも、世界を敵に回すことも厭わないと言うのに。 けれどもは言葉以外の何も望まない。縋るための言葉以外には何も。未来を望まず高杉を望まず、先のない未来を諦観して受け入れようとしている。 諦める必要など無いのだと、何度言いかけたか知れない。そのたび口を噤んできたのは、偏に怖れていたからだ。望まれない事を。自分は彼女にとって、その程度の存在でしかないのだと、知らされることが怖かったのだ。 信じていないわけではない。愛されているとわかっている。 それでも、引き寄せようとする手を拒絶されるのではないかと、それが恐ろしくてならない。愛しているからこそ、愛されているからこそ、諦め拒まれることが怖いのだ。愛されているのに拒まれる。まるで自分では彼女を不安から救い上げてやることなどできないと言われるように。己の無力さを見透かされているかのように。 ただただ、強く抱き締めるしかできない。いつか伝わればいいと思う、それは弱い考えなのだろう。 これほどまでに自分は弱い人間だったかと、知らず自嘲の笑みが漏れる。 わかっていても口にすることができない自分は、事実その通りなのだろう。 しなやかで強く、同時に細く儚げな身体を抱き締め、柄にもなく願うことしかできない。 いつか―――いつか、が笑顔で手を差し出してくる日を。恋に愛に溺れるだけではない、高杉自身を望んでくれる日を。 白々と、夜が明ける。 街が、動き出す。 それが無性に腹立たしいのは、八つ当たりなのだと自身でもわかっている。 わかっていて尚、苛立ちを抑えることはできない。 二度も自分から大切な者を奪い上げようとしながら、それでものうのうと平穏を享受する世の中が、憎くてならなかった。 が現れなくなって、何日が経ったか。 これまでも毎日のように会っていたわけではない。けれども何の断りもなく何日も音沙汰が無いというのは今まではありえなかったことだ。 その身に何かあったのかと懸念するよりも早く耳に入ったのは、真選組隊士の一人が粛清を受けたという話。そして間を置かずに入ってきた話は、その場で飛び出していかなかったのが不思議な程の物だった。 真選組副長が人形を手に入れた。 何も話さない。何も見ようとしない。泣きもしなければ笑いもしない。言うがまま、為すがままのその女は正に「生きた人形」。 その人形を、あの鬼の副長が溺愛しているのだ、と。 間違いなく、のことだと思った。 どんな拷問を受けようとも、何も口にしなかっただろう。だからこそ今はまだ、追っ手の気配は無い。 だがそんなことはどうでも良かった。 居所を突き止められようとも、真選組に取り囲まれることになろうとも―――それでも、を他の男にむざむざと渡すくらいならば、今すぐにでも江戸を火の海にしてやりたい程だ。 二度は無い。二度は―――二度と、失うつもりはない。たとえ望まれなくとも。たとえ拒絶されたとしても。その腕を掴んで、自分の元へと引き寄せる。 「てめェは、俺のモンなんだよ」 他の誰のものでも、彼女自身のものでもなく。突き動かすのは、行きすぎた独占欲。強く握りしめた手の中に、彼女の腕は今はまだ無い。 白み始める空。 この恋情の夜明けに待つのは――― →3 ('09.09.22 up) ![]() |