magnet 4



 
違う、と思った。
目の前にいるのは、確かにの姿形をしている。
だが彼女は、突然の闖入者にも反応することなく、他の男の腕の中で虚ろな視線を宙へと彷徨わせている。その姿は、高杉の知っているではなかった。
笑顔を奪い上げた自覚はある。自分といることで、次第に笑顔を失っていった。その笑顔の記憶は最早曖昧で、脳裏に浮かぶのは、不安に怯えた表情と、悦楽へと溺れる姿。
それでも、幸せだと言った。笑おうとして、それは叶わなくとも、それでも幸せだと涙に濡れた顔では繰り返し口にしていた。或いはそれは、自身でそう思い込みたいがための方便だったのかもしれないが。
けれどもそこには少なくとも表情が、彼女の意志が存在していた。
今の姿には、彼女の意志は見当たるべくもない。
誰が、をこんな「人形」に変えてしまったのか。
答えは問わずとも明らかだった。
殺意を隠すつもりは無い。隠す必要も無い。仮に隠せと言われたところで、湧き上がるばかりの感情を抑えることなど到底できそうにもなかった。明確な殺意でもって、高杉は刀を抜き払った。
キィィン…と耳障りな音を立て、その刃は目標へと到達する前に防がれる。
咄嗟の事態にも反応できるとは、流石は真選組副長の肩書きを持つだけはあるのだろう。だがその事に感心するつもりはない。
自分からを、そしてから人格を奪い上げた男に対して湧き起こるのは、憎悪ばかりだ。
一体どんな権利があれば、こんな真似ができると言うのか。をその腕に抱けると言うのか。
片手で刀を受けるには限度があるはずだ。それでも土方はを離そうとはしない。その腕に抱え込んだまま、叩きつけられた負の感情をそのままその目に宿して口を開いた。
 
「テメェ……よくもノコノコこんな所まで現れやがったな」
のためならな」
 
この腕の中に連れ戻すためならば、たとえ狂気の沙汰と言われようとも単身敵地に乗り込む程度の事、何を躊躇うことがあろうか。
とは言え、全く騒ぎを起こすことなくここまで来られたのは、単なる僥倖などではなかった。
今のこの状況を良しとしない者が、高杉だけではなく真選組内部にもいるということだ。
確かに副長がこの体たらくでは、隊内の士気に関わるだろう。何より、こんな状態のを見過ごすことができなかったに違いない。
脱け殻のようなは、すぐ目の前で起こる剣戟にすらどんな反応も見せない。
虚ろな視線は宙を彷徨うばかりで、此方に向けられることすらない。
ギリ、と奥歯が軋む。そんなの姿に覚えるのは、憎悪に加えた後悔の念。
いつか、などと呑気に希望を抱いていた自身が恨めしい。有無を言わせず自分の元へと引き寄せていたならば、或いはをこんな目に遭わせずに済んだかもしれない。
後悔先に立たずとはよく言ったもので、状況が状況でなければ自嘲していたかもしれない。
しかし今はその感情も、目の前の男に向かう憎悪へとすりかわる。
始めはを取り戻せさえすればいいと考えていた。しかしのこの様を見てしまうと、それだけでは気が済まない。こんな目に遭わせた人間を殺しても殺しても尚飽き足りない気分だ。
一体が何をしたと言うのか。真選組を裏切ったと言うのならそれは間違いだ。彼女は隊の内部の話は一切しなかった。第一、そんなつまらない話で限られた二人の時間を費やしたいはずもなかった。
それに真選組の局中法度では、何かしら隊規に叛けば切腹だったはずだ。殺されるならまだしも、この状態は明らかに異質だ。彼女とて、死を覚悟している節がどこかあった程だ。
だがその理由は、この状況下においてもを腕の中に抱えている男の姿を見れば一目瞭然だった。
真選組副長が「人形」を溺愛しているという噂。そこまでして彼女を手に入れたかったのか。
周囲を顧みないエゴ。吐き気をそれは、しかし高杉自身にも、にさえも当てはまる。
誰の意思も無視して、ただ己のためだけにを連れ出そうとしている高杉。そして、周囲の思いを無視して悲劇のヒロインを気取る
この場にいる誰も彼もがエゴイストだ。己のエゴを貫き通すのは、彼か。彼女か。
考えるよりも早く、刀を一閃させる。敢え無く防がれる攻撃。最初の一撃こそ躊躇いの無いものだったが、がその腕の中にいることを考えると、どうしても本気で斬りかかることができない。万が一にでもを傷付けてしまったら、そんな思いが過るのだ。
だがそれは相手も似たようなものだ。を腕に抱えたままでは防戦一方にならざるをえない。流石にを盾にすることは無いだろうが、その可能性が皆無とも言い切れない。を手に入れるために手段を選ばなかった男ならば、それは尚更だ。
これではいつまでも決着をつけることなどできそうにない。
 
を離せよ。そのままじゃやりにくいだろ?」
「……」
「本気でやろうぜ」
 
構えを解いて促せば、土方は油断無く高杉を睨み付けたままから離れ、立ち上がる。手には脇差。確かに室内で振り回すならばそちらが相応しい。対する高杉は普段と変わらない。
不利は承知。だがそれでも構うことはなかった。
身に纏った艶やかな着物とは裏腹に虚ろな表情でただ座り込む。その姿を目にするたびに襲われる後悔に比べれば、多少の不利など苦にもならない。
はもう元には戻らないかもしれない。壊れてしまった心を自分なら戻せると、そんな幻想を抱くつもりは毛頭無い。
ただただ許せなかった。の心を壊した男も。二人の思いを否定した世の中も。手を伸ばそうとしなかったも、その腕を強引にでも掴んで腕の中に閉じ込めてしまわなかった自身も。
その全てに叩きつけるように刀を振るう。後先のことなど考えることもしなかった。考えることもできなかった、というのがより正確か。のことに決着をつけない限り、先に進めるとは到底思えなかった。
決して広くはない室内に幾度も響く剣戟の音。この騒ぎにも関わらず駆けつけてくる人間が一人もいないという事実に、目の前の男は気付いているのだろうか。
正気を失った人間についていく者など、いるはずもない。それは同時に、自身にも当て嵌まる。だが、それでも構わないと、今ならそう思える。おそらく土方も、似たような心境なのだろう。
仕掛けられる攻撃を寸ででかわし、斬りかかるが、互いに浅い傷のみで致命傷を負わせるには至らない。先に疲労で気を逸らした方が負ける。即ち、死ぬ。
そう、わかっていたというのに。
視界の隅に動く何かを捉え、反射的に意識をそちらへと逸らしてしまう。動くはずのない人形。そのはずだというのに。
驚いたように見開かれた瞳。色鮮やかな着物も、その顔に生気さえ戻れば良く似合うのかと、こんな時だというのに考えてしまう。
 
……」
 
呟いた名前に呼ばれたかのように、ふらりとその身体が立ち上がる。覚束ない足取りで歩み寄ってくるに、高杉の目は最早その姿しか映していなかった。
現状も忘れ。
ただただ、愛しい恋人の姿だけを食い入るように見つめていた。
完全な隙。それでもすぐさまそこを突かれなかったのは、土方もまたの反応に驚いていたからにすぎない。
しかし、我に返るのは土方が早かった。
一瞬で良かった。その一瞬さえあれば先手が取れ、拮抗した力関係は崩れる。
高杉が気付いた時には遅かった。既に目の前に迫る刃の切っ先。防ぎきる手段は、無い―――そのはずだった。
しかしその一瞬。動いていたのは土方だけではなかった。
気付いた時には尻をついていた。寸でのところで突き飛ばされたのだと悟ったのは、目の前の現状を認識してからだった。
 
っ!?」
 
漏れた言葉は一体誰のものか。それすらわからない。
認識などしたくはなかった。の身体に刀が無遠慮に突き立てられている現実など。
背中から正面にかけて見事に貫いた刃を伝い、血が滴り落ちていく。凍り付いたように動かない部屋で、その音ばかりが耳につくようだった。いっそ現実味を欠いた状況に、信じたくない気持ちの方が先立って指先一つすら動かすことが叶わない。
 
「晋、助……」
 
掠れた声で呼ばれた名に顔を上げ、ハッとする。
その口からゆっくりと言葉を紡ぎだす。そこには焦がれていたものが―――本当はずっと望んでいたものが、あった。
 
「会いた、かった……晋助……会いたかったの…ありがと…来てくれ、た……」
 
そう言って手を伸ばすの顔に浮かぶのは、笑顔。
ずるりと、引き抜かれる刀。そのまま重力に逆らうことなく、刀が音を立てて落ちる。続いて、茫然自失といった土方の身体が崩れ落ちる。
だがそんなことはどうでも良かった。
刀を抜かれ、支えを失ったかのようにぐらりと倒れ込むの身体を抱き止める。
最後に会った時よりも痩せたその身体を着物越しにも感じられ、それが哀しくてならなかった。
 
っ、…っ!」
「晋助…」
 
何度も名を呼び、子供が縋るように強く抱き締めるしかできない。だが抱き返してくる腕は弱々しく頼りない。
死ぬな、とは口にできなかった。口に出してしまえばそれを認めてしまうようで恐ろしかった。
伸ばされた腕を掴み、力の限りに抱き締める。の願いに応えてやることしか、今の高杉にはできなかった。




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('09.10.25 up)