それは雨の降る夜だった。 傘もささず立ち尽くしていた男。 生気の失せた瞳が、じっと女を見つめていた。 ―――ああ。耳鳴りのよう。 降りしきる雨の中、女は黙ってその視線を受け止める。 この雨は、当分やみそうにない――― 瞳の彼方、その心の行方 雨が降るたび、は思い出してしまう。いつかの夜のことを。 土砂降りの雨の中を仕事から帰ってきてみれば、家の前にいたのは高杉晋助。久し振りに顔を見る幼馴染み。 傘もささず、雨に打たれるがまま。生気のない瞳に、これは俗に言う幽霊かと思ったものだ。 攘夷戦争に参加したかと思えば、過激派の攘夷浪士として指名手配までされてしまったのであれば、そうなっていたとしてもおかしくはない。 「……晋助?」 声をかけてみるものの、返事はない。ただ虚ろな瞳を向けられるだけだ。 幼い頃は、相手の瞳を見ただけで何を考えているかわかったというのに、その昏い瞳をいくら見つめても、何も伝わってこない。 これはいよいよもって幽霊か、化けて出てきたのかと思ったところで、やおら抱きしめられたのだ。 ずぶ濡れの高杉にいきなり抱きしめられ、もまた濡れてしまう。しかし不快感よりも先に、冷え切ってはいてもかすかな温もりを感じる相手に安堵した。どうやらまだ幽霊にはなっていないらしい。 同時に驚愕する。この幼馴染みは、決して他人に弱みを見せようとしない男のはずだ。 それが今、を抱きしめ、その肩に顔を押し付け――― ―――泣いてる? 流石に直接聞くのは躊躇われた。 顔も見えない。その声も雨音にかき消されている。それでもなお、この幼馴染みが泣いているのだと、にはわかった。 やみそうにない雨の中。 静かに泣き続ける高杉の背を撫でながら、うるさいほどの雨音が耳鳴りのようだと、はぼんやりと思った。 あの日と同じ。 一人暮らしの静かな家に、耳鳴りのように雨音が響く。 こんな雨が降るたび、は心配してしまう。高杉がどこかで泣いてはいないかと。 大の大人に向けてする心配でないことは百も承知だが、どうにもあの夜の出来事が脳裏を過ぎってしまうのだ。 幼い頃から変わらず、今でも意固地で頑なであろう高杉を思い、はくすりと笑う。 最後にまともに会話をしたのは、高杉が攘夷戦争に参加する直前だったか。子供とも大人とも呼べない、そんな頃。思えばあの時が初めてだったかもしれない。高杉が何を考えているのか、まるでわからなかったのは。 その瞳に見えるのはただ、哀しみと憤りで。 引き留める言葉さえ出せなかったその瞳の色は、今でも忘れられない。 そのまま戦争に参加して。指名手配までされて。 あの夜のように、高杉の瞳は昏いままなのだろうか。それとも哀しみと憤りに満ちているのだろうか。 どちらにしろ、それは可哀想な事だとは思う。たとえ本人が望んでそうなったのだとしても、幼馴染みの立場としては、そうあってほしくない。それがの勝手な感情だとはわかっていても。 願わくば、そんな幼馴染みに、一時でも安堵できる場所があってほしいと、は願う。 強くなる一方の雨音。 明け方にかけて警戒が必要だともテレビで注意喚起のニュースが流れる。 警戒しろと言っても、家の中に籠もっていればまず大丈夫だろう。近くに川が流れている訳でもない。土砂が崩れるような場所もない。 それでも、家の前に何か出しっぱなしにしていなかったか考え、見た方が早いかと玄関へと向かう。 ただそれだけの理由だった。 何か予感がしたとか、そんな事は決してなかったはずだ。 それなのに今、玄関の戸を開けたところで、大して驚かなかった自分自身に、は驚いていた。 「晋助」 そこには、あの夜と同じように、傘もささず、雨に打たれるがままの高杉が立っていた。違うのは、が家の中にいたこと、そしてを見て高杉が驚いたように目を見開いたことくらいだ。 「……まさか出てくるとはな」 「私も、まさか晋助がいるなんて思わなかったよ?」 「それにしちゃあ、驚いてねーな」 「うん。なんでだろうね」 「……本当に、俺の都合良く現れてくれるな、お前は」 不意に、高杉に抱きしめられる。これもまた、あの夜と同じように。肩に顔を押し付けられ、その顔を窺うことはできない。 乾いた着物が、あっという間に濡れてしまう。しかし不思議と不快感は感じない。これもまたあの夜と同じ。 雨音にかき消される声。縋るように抱き締めてくる腕。震える体。 ―――ああ。そうか。 不意に気付く。 あの夜から願っていた。この強情な幼馴染みが安堵できる場所があることを。 願うくらいならば、自分がその場所になってやれば良いのだ。 思い至ってしまえば、それはひどく名案のようにも思えた。きっと本当は、自身、そうあることを望んでいたのだろう。ただ、そうなってしまえば、もう後戻りはできないのだろうけれども。一度受け入れてしまえば、突き放すことなどできなくなってしまう。 仕方ないなぁ、と苦笑して、は高杉の背にそっと腕を回す。 どのみちには、この幼馴染みを放っておくことなど出来はしないのだから。 → 後編 ('13.08.10 up) ![]() |