襖一枚を隔てた向こうに、銀さんがいる。
お互い、いつもの服装でなくて、浴衣一枚。
わたしに至っては、下着すらつけてない。
その上その上。わたしが居る部屋には、昼間だっていうのにお布団が敷いてある。
部屋の隅には、衣桁。本来なら脱いだ着物をかけておく場所には、濡れた着物が無造作に干してある。
そして何より、部屋に何となく漂う、どこか甘ったるいような、けれど饐えたような、そんな匂い。
どうしても居心地の悪さを拭うことはできない。
だってわたしには、あまりにも場違いだと思えるから。
 
ここは、いわゆる「連れ込み宿」。
 
神様。どうしてわたし、こんなところにいるのでしょうか―――
 
 
 
 
後続・レンタル彼氏



 
今日は、特にすることもなくて。
なんとなく万事屋へ行ったら、銀さんしかいなくて。
どういった話の経緯だったか、デートをしようって話になって。
外に出て、何をするでもなく歩いて。
そしたら、突然の土砂降り。
雨を避けようと咄嗟に入った建物が、運悪くと言うか、この連れ込み宿。
濡れた着物を脱いで、宿の人が出してくれた浴衣を着て。生憎と下着の替えまでは無かったけど、それは仕方ない。
 
以上、回想終了。
 
通り雨だろうから、すぐにやむだろうけれど。
こんな場所で、じっと待ってるだけだと、時間が経つのが長く長く感じられてたまらない。
おまけに、下着を身につけてないせいか、なんだか肌寒い。
 
「銀さん、廊下、寒くない?」
「さみーよ」
 
襖の向こうにいるだろう銀さんに話しかけると、間を置かずに返事が戻ってきた。
そうだよね。
部屋の中にいても寒いんだから、廊下にいたらもっと寒いに決まってる。
 
「こっち、来る? 少しはマシだと思うけど」
「お前、自分の格好見てからそれ言え。今の見たら、次の瞬間には押し倒しちゃうよ、俺」
「…………」
 
確かに。
部屋にはお布団敷いてあるし、そもそもこの宿は、そういう目的で存在してるんだから。
ああでも。
いつもの銀さんなら、渡りに船とばかりに乗ってきそうなのに。
どうして今日は―――
……もしかして、あんまりわたしが嫌がるから、銀さん、わたしに見切りをつけちゃったりしたんだろうか。
それはそれで、寂しい。そんなのは、なんか嫌だ。
でも、だからと言って。今のわたしには、銀さんに抱かれてもいいよ、なんて言えるだけの心の準備も勇気も無くて。
 
「……雨、やまないね」
「そーだな」
 
降り出しに比べたら、雨の勢いこそ少しは弱くなったけれど。それでもまだ振り続ける雨。
その雨音を、わたしはぼんやりと聞いていた。
 
 
 
 *  *  *
 
 
 
人の声が聞こえたような気がして、目が覚めた。
目が覚めたっていうことは、つまり寝ていたということ。
座っていたはずのわたしが横になっていて、おまけにお布団の中にいたのだから、間違いない。
……って、お布団の中? もしかして、銀さんが運んでくれた、のかなぁ……
もぞもぞと身体をお布団の中で動かすと、また人の声が聞こえた。
それは、襖の向こうから。
耳を澄ますと、話してるその内容が辛うじて聞き取れる。
なんだか盗み聞きみたいだけど……まぁ、いっか。
 
―――うるせーよ、ババァ」
「口の利き方を知らない奴だね。商売の邪魔だって言ってんだよ、そんなところに座り込まれちゃあ」
 
この声……銀さんと。誰だろう? なんか、聞いた覚えのあるような……
 
「あァ? 金なら払うっつってんだろ。俺だって立派な客だろーが」
「客なら客らしく、部屋に入ってやることやってな。廊下に居座られちゃあ、目障りなんだよ」
 
あ、そっか。この宿の人だ。
部屋まで案内してくれて、浴衣も出してくれたお婆さん。
怒ってるの? え、どうして?
 
「ここまで来てやらないなんざ、とんだ甲斐性無しだね、まったく」
「違ェよ。甲斐性あるから、ここにいんだよ、俺は」
 
ええと。話がよく見えません。
とりあえず言えることは、銀さんはどちらかと言うと甲斐性無しなんじゃないかということくらい。
甲斐性あったら、無職に近い万事屋(ものすごく貧乏)にはなってなかったと思うよ。

「俺だってやりてーよ。けどが嫌がるんだから、仕方無ェじゃん」
「嫌がってても、最後にゃ素直になるのが女ってもんだよ」
「……そう思ってキスしたら、一ヶ月間も避けられたんですけど?」
 
う……ご、ごめん。銀さん。
で、でもあれは!
あれはなんて言うか……恥ずかしかったのとか、銀さんのこと好きになるのが怖かったとか。そういった理由があって!!
 
「キスだけでそれなんだぜ?
 強引に初体験に持ち込んだりしたら、今度こそ俺、に逃げられるね。マジで」
 
確かに逃げそう。
それでも、最終的には銀さんのところに戻るとは思うけれど、初めてキスされた時の比じゃないくらい、必死になって銀さんのこと避けそうだなぁ。
「情けないねぇ」というお婆さんの言葉は、当然ながら銀さんに向けられたものなんだろうけれど。
わたしに対しても言われてるようで。なんだか胸が痛くなる。
 
「焦ってに逃げられるよりマシだろーが。
 なんてーの? はまだ、夢見がちなお子様なんだよ」
 
……悪かったね。お子様で。
 
「おまけに、一度は怯えさせちまったわけだし?
 だから今度は、がいいと思えるまで、待ってやりてェんだよ。
 こんな俺のどこが甲斐性無しなんだ? 我ながら心広ェよ。銀河系レベルで」
 
自分で「心広い」とか言う?
おまけに、今まで散々、迫ってきてたくせに。ソファの上とか。
……でも。
もしかしたら本音では、ちゃんと待っててくれるつもり、だったのかな。
そうだとしたら……
 
「第一、ドサクサに紛れてこんな場所で初体験なんかしたら、が傷つくだろーが。俺はを傷つけたくなんかねーの」
「『こんな場所』で悪かったね」
  
……どうしよう。
そんなこと言われたら、わたし……わたし―――
 
「ホンット、馬鹿な男だね。据え膳を食わないなんてさ」
「ああ、馬鹿だね。馬鹿みたいにに惚れてんだよ。愛しちゃってんだよ、俺は」
 
―――銀さんのこと、どうしようもなく好きになっちゃう……
もちろん、今までだって好きだったんだけど。
そんなのとは比較にならないくらい。
胸が締め付けられて。
涙がこぼれそうで。
それなのに、嬉しくてたまらない。
どうしたらいいんだろう。どうしたら―――
枕に顔を押し付けて、お布団を頭からかぶって。
声は聞こえなくなったけれども、頭の中は銀さんのことで一杯。
ねぇ、好きだよ?
わたし、銀さんのこと、本当の本当に、好きだよ?
どうしたら、伝わるの?
わたしもこんなに銀さんのことが好きだって、どうしたら伝えられるの―――
 
―――どれくらい、悩んでいたんだろう。
そっとお布団から顔を出すと、廊下からの声は聞こえなくなっていた。
どうやらお婆さんは、いなくなったらしい。
もぞもぞと、今度はちゃんとお布団から出て、静かに歩き出す。
向かう先は、廊下に続く襖。
その前に腰を下ろして深呼吸すると、わたしは静かに襖を開けた。
 
「お、。起きたか?」
 
そこには、いつもと変わらない銀さんがいた。当たり前だけど。
だけど、いつもと同じなのに―――見ているだけで、好きだという感情が溢れてくる。
 
「って、浴衣の前くらい直してから出てこいよ。銀さん襲っちゃうよ?」
 
笑いながら言われたそれは、多分、冗談なんだろう。
わたしも、いつもなら、ものすごい勢いで部屋に戻って直してるところ。
でも今日は、いつもと違うから―――
 
―――いいよ?」
「……はい?」
 
わたしが何を肯定してるのか、銀さんはわからないのかもしれない。目を瞬かせてる。
けれど……これ以上、何を言えばいいの?
わからなくて。わからないから、行動に移すしかなくて。
廊下に座り込んだままの銀さんに手を伸ばすと、そっと口唇を重ねた。
自分でもわかるくらい、身体が震えてて。情けなくて仕方なかったけれど。
それよりも、ドキドキと脈打つ心臓の音が、気になってたまらない。
 
……?」
「わ、わかって、よ……っ」
 
どうすればいいの?
言葉を口にすれば、それが一番なのは、わたしだってよくわかってる。
 
「わ、わたし……わたしっ、銀さんのこと……好き、だから……どうしようもないくらい、好きだから……っ」
 
どうしていいのかわからなくて。
何を言いたいのか、何を言ってほしいのか。何がしたいのか、何をしてほしいのか。自分のことなのに、わたしにはちっともわからなくて。
ただわかるのは、銀さんが目の前で驚いた顔をしていることと、わたしの目から涙が止まらなくなったことだけ。
どのくらいの間、そうしていたんだろう。
ひどく長く感じたけど、実際はそんなに長くなかったのかもしれない。
不意に銀さんが視線を逸らした。
 
―――これで勘違いだったりした日には、俺は泣くね」
「え? ―――きゃあっ!?」
 
銀さんが視線を戻したかと思ったら、腕を引かれて。
次の瞬間には、軽々と抱き上げられてしまった。
いきなりのことに、問い質すこともできないでいるうちに、気付いた時には部屋の中、わたしの身体はお布団の上。
て、展開早すぎっ!?
 
、いいのか? マジで?」
「う、うん……」
「今なら間に合うぜ? 『初めて』がこんな場所で、お前はいいわけ?」
「……今しない方が、後悔するよ。絶対」
 
そう。
こんな思い切ったこと、もう二度とできないような気がするから。
本音を言えば、これから起こるだろうことが、少し怖いんだけど。
それ以上に、わたしは銀さんのことが好きなんだって、わかったから。
 
「んな、恐ろしいものを見るような目をして言われても、全然説得力ねーよ」
「そ、そんな目なんかしてない!」
「してんだよ」
「してないってば!」
 
言い張ってはみたけれど。
でも、やっぱり怖いのは事実で。
だから。
 
「い、痛くしないで、ね……?」
「…………前向きに善処しマス」
 
え、な、なに、今の間は!? ぎこちない語尾は!!?
嘘でもいいから、言ってくれてもいいじゃない!!
思わず文句を言いかけたけれど、口に出せずに飲み込む羽目になってしまった。
重ねられた口唇。
深められる口付け。
何も考えられなくなるような。それだけで蕩けてしまいそうな。
文句を言う気力も無くなった頃、ようやく銀さんはわたしを解放してくれた。
 
―――でも、優しくはしてやっからよ」
 
そう口にして笑いかけてくれた銀さんに、わたしの心臓は跳ね上がる。
さっきから、おかしくなりそうなくらいにドキドキが止まらない。
本当にわたし、どこかおかしいのかもしれないけれど。
重ねられた口唇の温もりに、そんなことはこの際どうでもいいやと、そう思えて。
 
 
 
雨はとっくに止んでいたのだけれども、もう少しだけ雨宿り―――



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エロまで到達しなかったです……
ど、どうなんでしょうか? 書いた方がよかったのでしょうか?
書こうと思えば、この続きで書けないこともないのだろうけど。