鏡花水月 1 「姐さん。お客です」 「ありがとう」 呼びに来た店の女性に笑顔を向けると、もう一度鏡の中の自分と向き合う。 華美すぎるほどの着物。むせるような濃い目の化粧。そして、張り付いたような笑み。 作り物の、私。 真選組監察としての肩書きを持つはここにはいない。 ここにいるのは、一介の遊女。男に身体を明け渡し、寝物語に他愛もない話から国家転覆の一大事まで様々な話を聞かされ、或いは聞き出す。そんな女。 薄汚れた、女。 けれども、そんな事は構わない。 それであの人の役に立てるのならば。私を救い上げてくれたあの人の役に、少しでも立てるのならば。 私の身体なんて、女としての幸せなんて、如何程の価値があるだろう。 媚を振り撒き身体を開く事に抵抗がないわけではない。むしろ吐き気すら覚えるほど―――昔はこんなこと、無かったはずだというのに。 不意に過ぎる過去の記憶とこれからの行為に込み上げてくる気分の悪さをやり過ごし、覚悟を決めて私は腰を上げた。 短いはずの廊下をやけに長く感じながら、先導されて進む。 今日の客はどんな男だろう。もちろん、いつもいつも攘夷浪士が来るとは限らないし、来たとしても軽々しく情報を洩らす人間ばかりではない。 けれども思いもかけない所から情報が手に入ることもある。 まさに一縷の望み。それだけを胸に、今日も私は客が待つ部屋の前に腰を下ろした。 ひんやりとした板敷きの廊下。膝の前に三つ指をつき、閉じられた襖に向かい深々と頭を下げる。 すっと襖が開けられる音。 「本日はお呼びたていただきまして、ありがとうございます。どうぞごゆるりと―――」 いよいよ始まる男との駆け引き。 笑みとともに顔を上げた私の口上は、あまりにも不自然なところで止まる。 止まらざるをえなかった。 「待ってたぜ―――、だったな?」 開けられた襖の向こう。部屋の中。 手酌で一人酒を飲んでいたのは、忘れようのない男。着流しの遊び慣れた風体でありながら、隻眼は獲物を狙う獣のように鋭い光を湛えている。 高杉晋助。攘夷浪士の中でも最も過激で危険で―――そして、私を抱いた男。 抱いた、などという生易しい行為ではなかったけれども。与えられた苦痛がまざまざと蘇り、背筋が凍りついたように動けなくなる。 何故。どうしてこの男がこんな場所にいるのだろう。 身体の震えが止まらない。 訝しんだ店の人が、何事かと顔を私に向ける。 何でもないからと下がってもらうと、震えの止まらない足を奮い立たせ、私はゆっくりと部屋に入った。 静まりかえった室内。 「―――何をしに来たの?」 やっとの思いで喉の奥から絞りだした声は掠れていて。動揺しているのが明らかすぎるほど。 部屋の入口から動けないまま。ただ視線だけは高杉を見据えている。無駄な行為だとわかっていても。 無駄だろう。今更どんな抵抗をしたところで、この男から逃れることは不可能なのだから。 殺されるのだろうか、私は。 ちらりとそんな事を思う。 今まで覚悟はしてきたつもりだったけれども、目前にしてしまうと、恐怖を拭い去ることなどできないようだ。 「最近の女は、客に酌もしねェのか?」 「……どういう、つもり……?」 身動きできないまま、再度尋ねる。 どうせまともな返答など期待できないというのに、それでも問わずにはいられない。 案の定、答えは返ってはこない。 満ちた静寂の中、酒が猪口へと注がれる音だけが耳に届く。 どれほどの時間が経過しただろう。 やけに長く感じはしたものの、実際には短いものだったのかもしれない。 不意に高杉が私へと顔を向ける。 その鋭い眼光に射竦められたかのように、呼吸することすらも苦しくなる。 ああ。いよいよ殺されるのだろうか。 逃げることも、視線をそらすことさえもままならず。 腰を上げ歩み寄ってくる高杉を、為すすべもなく見つめることしかできない。 数歩もない距離は、あっという間に縮まってしまう。 「どういうつもりか、とか聞いたな?」 視線の先には、鋭い眼光。そして、皮肉げに口角を上げた笑み。 見下ろされ、いつ殺されてもおかしくはない距離だというのに。 それでも、その表情に殺意を感じられないというのは、どういうことなのだろう。 何か違和感を感じる。何か――― 「簡単なことだ―――惚れた女を抱きに来ただけだ」 ようやく、違和感の正体に気付く。 手元にあるべきはずの刀が、その手に握られていないということ。どころか、部屋の隅に無造作に置かれたままだということ。 ―――どういう、こと? ますますわからない。 不意に襲われる浮遊感。 それはいつかと同じ感覚。身に覚えのある感覚。そして今しがたの高杉の言葉。 その意味を理解するよりも先に、私の体は奥の部屋に敷かれた布団の上に横たえられていた。 これから起こること。その予感に身体が恐怖で強張る。 忘れようにも忘れられない、この身体に刻みこまれた苦痛。 「冗談、言わないで……」 あの時に与えられた苦痛と何てかけ離れた言葉だろう。信じる信じないどころの話ですらない。質の悪い冗談以外の何だというのか。 私の掠れた声に、けれども高杉は何も答えない。ただ皮肉げに口の端を上げるのみ。 ―――逃げることは、諦めている。 その視線に縫い付けられたかのように動かない身体。もし動けたとしても、逃げ切ることなど不可能。それは前回でわかっている。 私にできることなど何もない。唯一、「諦める」こと以外には。 観念して瞳を閉じる。 いいように身体を扱われて、そして殺されるのだろう。せめて無様な醜態だけは晒すまい。それが私が持てる唯一の誇りだから。 しゅっと、帯を解かれる音が耳に届く。次いで剥がされていく着物。衣擦れの音。感じる肌寒さ。暴かれていく私の身体。 一糸纏わぬ姿にさせられてしまってから、せめて最後の相手はあの人が良かったなんて、そんな愚にもつかないことが頭を過ぎる。 とうに捨てた想いのはずだと言うのに。未練がましいけれども、最後くらいは許されるだろう。 冷たい手ですっと肌を撫でられ、反射的に身体が跳ねる。 何でもいい。早く終わらせてほしい。そして早く殺してほしい。いつまでも未練がましい自分を消してほしい。 「えらく嫌われたものだな、俺も」 自嘲を含んだような声音のその意味は一体何なのだろう。 この男の意図がまるでわからない。 何かがおかしいのに、何がおかしいのかもわからない。 「―――遊女への口吻けは、御法度だったな」 その言葉は、偽りの遊女である私への皮肉だろうか。 口唇をなぞるのは指先か。口吻けの代わりだとでも言うように、殊更ゆっくりと。時折、指の腹で軽く押しながら。 この所作には何の意味があるのだろう。 不意に首筋に感じたちくりとした痛み。けれどもそれは、前回味わわされた恐怖を伴うものではなくて。むしろどこか甘い痺れに身体が疼くような。不思議な感覚。 それが首筋から胸元にかけていくつも落とされる。 肌の上を滑る手と相まって、身体中に広がりゆく甘い感覚。 ゆっくりと、どこか優しい手の動きは、私を労るかのようで。この男には似つかわしくない行為だと思う。 他の男たちにしたところで、口ではどれだけの愛の言葉を囁こうとも、行為となれば自分本位になるというのに。 これでは―――これではまるで、本当に愛されているみたいではないか。 そんなことが有り得るはずが無いのに。私は真選組の人間で。この男は最悪とも言える攘夷浪士で。愛だなんて、そんなもの…… 「―――っ!?」 胸の頂に口付けられ、反射的に身体が跳ねる。辛うじて声は堪えたけれども。 他の男たちに対しては、気を良くさせるために無理にでも声を出すのだけれども。この男に対してだけは声を出してはならないと、理性が訴える。理由などわからない。けれども声を堪えきれなくなったが最後、流されてしまいそうなのだ。 身体の下に敷かれている布団をきつく握り締めて、襲いくる快楽をやりすごして。 ―――快楽。そう。今、私が感じているものは、他の男たちに抱かれる時に感じるような吐き気とは明らかに違う。今まで感じた事がない。これがきっと、快楽――― どうして。何故よりによってこの男に、そんなものを感じなければならないのだろう。 触れられた所から次々に熱を帯びる私の身体。あまりの熱さに気が狂いそうにさえなる。 波に攫われそうな理性。手放したらきっと楽になれるのだろう。けれどもそんなこと、できるはずもない。 嫌だ―――この状態で理性を手放しなどしたら、一体どうなってしまうのか。どんな醜態を晒してしまうのか。この男の前で。 それが、怖い。 「そこまで嫌なら―――惚れた男のことでも考えてろよ」 不意に耳元で囁かれた言葉。 その意味に思わず目を見開いたのと、視界が回るのとは、同時だった。 「―――ぁあっ!!?」 うつ伏せにさせられ、腰を引き上げられ。 驚いて問い質す間もない。 次の瞬間には、質量を持った何かが一息に私の中へと押し入ってきた。 何もかもが不意打ちで、思わず声をあげてしまった事に不覚を感じたのは束の間。まるで私の身体を穿つかのように背後から繰り返される抽挿に、意思とは無関係に嬌声をあげる私の身体。 耐えようとしても、圧迫される胸が息苦しさを訴える。酸素を求めて口を開けば、引き換えにあられもない声が口から飛び出す。 「やっ…やめっ…ぁんっ、やぁっ!!」 制止の声など何の役にも立ちはしない。 布団を握り、口唇を噛み締めて。けれども声を堪えた分だけ、行き場を失った快楽の波が私の身体中を駆け巡る。 そんな私を嘲笑うかのように、繰り返し奥まで突かれ。過敏になった箇所を幾度も弄られ。 気が狂いそうで。 もしかしたら、本当に狂っていたのかもしれない。 不意に途切れた意識。 次に自分の明確な意思で周囲を認識できた時には、室内には私以外には誰もいなかった。 力の入らない身体。億劫ではあったけれども何とか身を起こす。 首を巡らせても、やはり室内には誰もいない。静まりかえり、他の部屋の騒ぎだけが微かに耳に届く。 ―――どういう、こと……? あの男は。高杉晋助は、どこに行ったというのか。 どうして私は殺されていないのか。 投げ出されていた襦袢を羽織り、この状況に対する答えを示す何かが無いかと立ち上がる。 ざっと視線を巡らせたところで、あの男がいたという痕跡すら残っていない。唯一、食べさしの膳と――― 「……紙?」 膳の前に置かれた白紙。こんなものは私が部屋に来た時には、行為の前には決して存在していなかった。 つまり去り際に置いていったのだろう。あの男が。 見る限りは何の変哲もない紙。けれども手にとって裏返してみると、筆で走り書いたのだろうか。癖のある文字が数行にわたって綴られていた。 何が書いてあるのかと目を走らせ―――信じられずに幾度も読み返してみたものの、何度読んでも内容は変わらない。 「どういう、こと……」 もう何度目になるかわからない問いかけに答えを返してくれる人物は、当然ながらこの場にはいない。 紙を手にしたまま、どうしていいのかわからなくて、私は腰が抜けたようにその場に座り込んでしまう。 白い紙に書かれていたのは、とある攘夷浪士の一派に関する情報。もちろん高杉が率いている鬼兵隊のものでこそなかったものの、それでも私達が何とか尻尾を捕えようとしていた、そんな組織の、近々起こすであろうテロ行為に関する情報。 もちろん、罠である可能性は捨てきれない。喉から手が出るほどに欲しかった情報がこのタイミングで手に入るなんて話が出来すぎている。 それでも、わざわざ私を経由して情報を流す意味がわからない。信憑性など無いに等しいと判断されると、誰より高杉自身がわかっていそうなものだ。 ならばこれには一体どんな意味があると言うのだろう。 わからないことばかりだ。 不意に身体がぶるりと震える。 それが肌寒さ故なのか、それともこれから起こるであろう何かに対する予感故なのか。 私にはまるで見当もつかなかった。 →2 こんな遊郭無ぇよ、と自分で突っ込んでます。すでに。 雰囲気で読んでください、雰囲気で(酷 その他の言い訳は最後に。 ![]() |