「職員室でセンセが倒れたって、マジ?」
「何でオメーが知ってんだよ」

それは朝のショートホームルームの時間。
何の前触れも無く尋ねてきた沖田に、銀八は怪訝な目を向ける。
確かにそれは事実だ。体調が悪かったのか、朝の職員朝礼の最中にが倒れたのだ。保健医の話では貧血ではないかということだったが。
だがそれはそれだけの話。後で様子を見に行こうかと考えてはいるものの、別段、生徒たちが騒ぎ立てるほどの話ではない。
銀八の問いかけに答えることなく、話を振ってきた沖田は「ってェことは、コレはマジネタってことかィ」と自席についたまま携帯電話の画面に見入っている。
その一人納得している様子が気になるのか、生徒たちがその周囲に集まりだしてから。勿体ぶったように、沖田が口を開いた。
 
センセ、妊娠してるんだそうですぜィ」
 
ぽろり、と銀八の煙草が口から落ちる。
普段であれば最低限のルールと携帯灰皿に押し込むものを、今ばかりは無意識にスリッパの裏で踏み潰してその火を消す。
良識を働かせる余裕など無かった。たった今耳にした内容に、思考回路がまるで動かなくなってしまったのだから。
妊娠? 誰が? が? 誰の?
考えるよりも先に、銀八は教室を飛び出していた。向かう先はもちろん、倒れたが運び込まれた保健室。
 
 
 
 
とある教師の愛情衝動



 
「先生、どうしちゃったのかしら」
「どうも先生にフラれたようでさァ」
「フラれてねェェェ!!!」
 
相変わらず携帯を弄りながらの沖田の言葉に反論すべく力の限りに叫んではみたものの、その信憑性が限りなく薄い事は、銀八自身にもよくよくわかっている。
授業も何もやる気が起きない。教壇に突っ伏し呆けた頭で辛うじて考えるのは、朝の保健室でのの反応について。
仮に妊娠の事実が本当だとして。となれば相手は銀八しかいない。はずだ。多分。おそらく。そうであって欲しい。いつだって希望は捨ててはならないものだ。
段々と気弱になっていく自覚はあるが、それでもからあんな反応をされては無理からぬことではないと、虚しいながらも自身を慰めてみる。
保健室に飛び込んで事の真相を問い質す銀八に、は無表情に言い放ってきたのだ。「先生には関係の無いことです。帰ってください」と。
何を言い募っても宥め賺してもの態度は変わらない。最後には煙たがられた保健医に追い出されて、今に至るのだ。一限目から三限目までは別クラスで、そして今の四限目はZ組の教室で、ひたすら放心状態に陥っている。教室に来ているだけ上出来だと、銀八自身思うほどに。
それはともかく、に嫌われるような事でもしてしまったのだろうか。
思い返してみれば、確かに散々やらかしてきたとは思う。心当たりが多すぎて、どれも今更というような気もする。それとも今回の妊娠で我慢の限界にでもきたのだろうか。
だがそれにしたところで、今まで何の兆候もなかったのはおかしな話だ。希望的観測に過ぎないのかもしれないが、それでも嫌われていたならば何らかの前触れはあっても良さそうなものだ。
ここ数日のの様子に、変わったところは無かった。
それが何故、今日になっていきなりフラれ―――
 
「イヤイヤイヤイヤ。フラれてねーから。別にフラれてねーし、俺」
「往生際が悪いですぜィ、先生」
 
横槍は無視することにして、銀八は教卓に突っ伏したまま考える。
だが、限りなく自習に近い教室内では誰一人大人しくすることなく騒いでいる。一体どこから情報を仕入れたのか、その専らの話題は当然ながらのこと、そして銀八のことだ。
好き勝手に想像しては騒ぐ生徒達の総論としては、「そもそも付き合っていたというのが間違いだ」「先生が銀八をフッたのは正しい選択だ」ということらしい。
腹立たしいが、最早反論する気力も銀八には無い。今はただ、何故があんな反応を見せたのか、その疑問の答えを探すのみ。
とはいえ、悩んだところで答えが出るわけもなく。終いにはに対して腹立たしくさえ思えてきた。
そもそも銀八の言い分も何も突っぱねて、どころかまともに聞きもしないで「関係無い」は無いだろう。仮にも腹の子の父親に向かって。多分。そのはずだ。でなければ泣きそうだ。
一体どうしろと言うのか。
辛気臭い溜息を量産する中、不意に「アイツ責任取る気ねェんじゃねーのか?」などという聞き捨てならない言葉が耳に入り、思わず銀八は頭を上げた。
  
「んなワケねェだろ! 責任なら喜んでいくらでも取るっての!!」
「だったら何でフラれてんだよ」
「俺の方こそ聞きてーよ! って言うかフラれてねェ!!」
 
怒鳴りつけながらも、訂正する事は忘れない。フラれてはいない。少なくともあれはフラれた事にはならないはずだ。きっと。
銀八が身を起こした事で本人から詳細を聞き出すつもりなのか、何人かの生徒が教壇の周囲に集まってくる。その顔に浮かぶのはどれも好奇以外の何物でもない。
明らかに面白がられているという事実が、銀八にとっては面白くない。何せこちらは人生の瀬戸際に立たされているのだから。
だが生徒達がそれに頓着するはずもない。確かに他人事ならば、これ以上ない話の種であろう。好き勝手に「間違いなくフラれてるだろ、それ」だの「現実を見た方がいいですぜィ」だのと言ってくれる。
いい加減殴ってやろうか、とまで思えてきたところで、横から思いもかけない意見が発せられた。
  
「もしかしたら、そういう風に責任取られるのがイヤなんじゃないんですか?」
「は? なんで?」
「できちゃった結婚って、仕方なく、ってイメージあるじゃないですか」
「仕方なくねーよ! 俺は喜んで結婚するよ、となら!」
 
誰が仕方なく結婚などするものか。
と言うよりも相手がだからこそどんな責任でも取るつもりがあるのであって、他の女とならば結婚の『け』の字も考えたくはない。
「違うのか」「いい線いってると思ったのに」などと無責任に騒ぎ立てる生徒達が鬱陶しくはあったものの、それでも当人達はそれなりに真剣に考えていたらしい。
と言っても考えているのは主にについてのことで、どうやら銀八などというロクデナシに引っ掛かってしまった可哀想な先生、という立ち位置に置かれているようだ。
その点については、反論する気にもなれない。銀八自身、どうしてに好かれたのか疑問に思わないでもないからだ。我ながら好かれる要素はあまり無いように思える。
やはり、愛想を尽かされてフラれたのだろうか。
認めまいとしていたものが俄かに現実味を帯び、銀八はますます頭を抱えたくなった。
だが生徒達はそんな銀八の様子などどうでもいいようで。相変わらず好き勝手に周囲で騒いでいる。
 
「でも先生なら考えそうよね。責任感じられたくなくて、敢えて突っぱねるとか」
「昼ドラでよくある展開ネ。『あなたに迷惑はかけられないわ』的な」
「あ、それありそう!」
「相手と結婚の約束してねェこと前提だけどねィ」
「そうよね。って言うか先生、プロポーズってしてないんですか?」
 
不意に話を振られ、銀八は気だるげに顔を上げる。
馬鹿にはしていたが、どうしてなかなか、高校生にしては的を射た発言をするではないか。テレビドラマの見すぎなのかもしれないが。何より、どうして日中は学校にいるはずの高校生が昼ドラの展開など知っているのか。
だが目まぐるしく進歩する現代社会には、ワンセグ携帯などというものもあるのだから、不可能では無いだろう。その辺りについては言及を避けることにする。
振られた質問に答えかけ、ふと、何故生徒に向かって馬鹿正直に答えなければならないのかと疑問も湧いたが、毒も食らわば皿までも。青臭い意見が実は有効だったりする可能性とてあるのだ。
 
「……してねーよ。物事にはタイミングってもんがさ」
 
言いながら脳裏に思い浮かべるのは、買ったきりどうすることもできずにいる物。
今日こそは、と常に思って持ち歩いているものの、結局いつも渡せずじまい。買ってから一体どれだけの日数が経過してるのか、銀八自身すでに覚えていない。
物事はタイミング。そう言ってみたものの、ならばそのタイミングとはどういう時なのか。まったく見当もつかない銀八にとってその言葉は、単なる言い訳以外の何物でもない。それは自分でもよくわかっている。
 
「でも仄めかすようなことくらいは言ってるんじゃないんですか?」
「…………言ったっけか?」
 
言ってない気もする。
冗談交じりだろうとも、言った記憶は無い。
と言うよりも、そんな事が口にできるのであれば、さっさと渡すべき物を渡せていたのではないか。
何故か周囲からの視線に険悪なものが混じりつつある中で、銀八は妙に居た堪れない気分になる。
非難される謂れは何もないはずだ。何もしていないのだから。その『何もしていない』ことが問題なのかもしれないが、だからと言って何故針の筵に追い込まれなければならないのか。
一時は縋る思いすら抱いていた銀八も、次第に苛立ちを覚えてくる。
 
「まさか『愛してる』って言葉すら言ってないなんてことは……」
「んなこっ恥ずかしい台詞言えっか!!」
 
ついには逆ギレして叫んだ銀八だったが、それが生徒らの不興を買ったのか、いつの間にかこちらの様子を窺っていたらしいクラス中から口々に非難を浴びせられる。
さすがマンガ漬けテレビ漬けゲーム漬けの現代っ子たち。「愛してる」という言葉など当たり前と言わんばかりの勢いで詰め寄ってくる。実にアナログ派には生きにくい時代となってしまった。「鳴かぬ蛍が身を焦がす」はどうやら古いらしい。
それにしてもこれだけ大騒ぎされては、隣の教室から苦情が来かねない。
確かに他人の恋愛事というものは傍で見ている分には絶好のネタかもしれないが、当事者にとっては真剣だ。しかも下手をすれば別離の危機というのに。
しかし生徒らも、一応は真面目に考えていたらしい。ひとしきり銀八を非難して気が済んだのか、ややあって教室内は落ち着きを取り戻す。それでも好奇の目が一斉に銀八の方へと向けられていたが。
 
「じゃあ先生、好きで先生と付き合ってるわけじゃないんですか?」
「んなワケねーだろ」
「それなら『愛してる』って言ってあげないと!」
「そうアル! 言葉が無いと女はいつだって不安で眠れぬ一夜の過ちヨ!!」
「意味わかんねェよ!」
 
女の気持ちは女の方がよくわかるのかもしれない。たとえそれが女子高生であっても、確かに女は女だ。
意味不明な部分もあるが、要は告白してこいということらしい。
今更だ。今更過ぎる。付き合ってどれだけ経っていると思っているのだ。どこまでの関係になっていると思っているのだ。行き着くところまで行き着いて子供までできてしまったというのに。
だが教室内はすでに告白モードになっている。
それにしても、告白さえすれば全ては丸く収まるような雰囲気になっているが、これで恥ずかしい思いまでして告白してそれでも突っぱねられたらどうする気なのだ、生徒達は。
もちろん責任を取るつもりなど一切無いに違いない。無責任なことこの上ないが、所詮は他人の恋愛。そこまで責任を持つ義務もあるはずがない。
女子生徒たちの言葉にも一理ある。何より、何もしないまま成り行きに任せているよりは、恥を忍んでも行動を起こす方が実のある結果を残せそうだ。どちらにせよ一度はと話し合わなければ。このまま終わらせるわけにはいかないのだ。
 
「わぁったよ。言ってきたらいいんだろ、言ってきたら」
 
生徒らの野次にのせられた感はあるが、覚悟を決めて銀八は立ち上がる。
そのまま教室を出れば、後ろからあがる歓声。銀八の行動に対する喝采か、それとも自習が本決定したことに対する快哉か。後者であれば嵌められたことになるが、どのみち自習のようなものだったから構うことはない。
それよりも今はのことだ。
今回の妊娠騒動、銀八が関係無いわけがない。意地でも関係を認めさせてやる。
そんな決意を胸に一人、銀八は人気の無い廊下を保健室へと向かった。



 →続



('08.04.14 up)