よくよく考えてみれば当たり前のことだが、は既に保健室にはいなかった。
朝運びこまれたのだ。未だ体調が悪いならば、とっくに病院に担ぎ込まれているはずだ。保健医によれば一限目の頃合には仕事に戻ったらしい。
今日のこの時間、には授業が入っていない。恋人を自負しているのだからその程度の時間割は把握している。
だが職員室にもどこにも、の姿が見えないのだ。
保健室にいないとわかった時、告白を先延ばしにできたことに安堵したのも束の間。今度は焦りが生じてくる。
馬鹿げた考えだとは自身でも承知している。
それでも、このままに会えなくなるのではないかという不安が―――
 
 
 
 
とある教師の愛情衝動



 
始まりは、からの告白だった。
こちらから頼んで付き合ってもらった訳ではないというのに。
いつの間にか銀八の方こその存在に溺れ、抜け出せなくなっている。
 
「ったくよォ。みっともねェよな、これじゃあ」
 
余裕などあったものではない。
必死で校内を探し回るものの、一体どこへ姿をくらましてしまったのか。の姿が影も形も見当たらない。
職員玄関に靴は残っていたから、まだ校内に残っていることは間違いがないのだが。
込み上げてくる不安を押し黙らせてみたものの、当てもないのにどこを探せばいいのやら、それすら見当がつかない。
のことならば何でも知っているつもりになっていたが、どうやらそれは自信過剰な思い込みに過ぎなかったらしい。いざとなれば、が行きそうな場所も、何を考えているのかも、さっぱりわからないのだから。
そうこうしている内に校舎内が俄かに活気付き、昼休みに入ったことを知る。
だからと言うわけでもないが、一息つきたい気分になる。銀八は手近な壁に背を預けると、取り出した煙草に火をつけた。
校舎内だが、他人に見咎められなければ問題は無い。に知られれば叱られること間違いなしだが。
―――どうしても、の事を考えずにはいられない。
背を壁に預けたままずるずるとその場に座り込み、銀八は中空を当ても無く見つめる。
どうしたところで結局、の事へと思いが至ってしまう。
 
「愛してる、ねェ……」
 
正直なところ、そんな言葉を自分が口に出せるとは到底思えない。
可愛いとは思う。好きだとも思う。我ながら惚れ切っているとも思う。これが愛でなければ、他の誰も愛することなく人生を終えることになってしまう。
だが、実際にその言葉を面と向かって口に出せるのかとなれば、答えは否。恥ずかしさが先に立って、どうにか誤魔化しの言葉を吐くのが関の山だろう。
それでもを失いたくないという思いは確かなものだ。そのためにはまずと話さなければ。そしてそのためにはを見つけなければ。
辿り着く結論に、銀八は思わず溜息を吐く。一体どこを探せば、この果ての無い隠れ鬼は終わるのだろうか。これがただの遊びならば、とっくに白旗を揚げているところだ。
校内の喧騒に混じって、いつの間にか報道部による昼の校内放送が始まっていた。それはいつもの光景。それなのに銀八一人が、日常から取り残されているような気がする。
いや、それを言うならばも、かもしれない。少なくとも校内のどこかに身を潜めることが日常であるはずがない。そして同じように、校内放送を聞いているのだろうか。
誰に対するものともわからない苛立ちを覚えながら、銀八はゆっくりと立ち上がる。
とにかくこのまま終わるわけにはいかない。伝えなければならない言葉があるのだ。たとえそれがどれほどこっ恥ずかしい台詞なのだとしても。それでの気を引ける可能性があるならば、口に出す価値はある―――のかもしれない。
銜えていた煙草を携帯灰皿へと押し付け、銀八は歩き出した。今度は、明確な目的地へと向かって。
 
 
 
 
 
 
「よォ。邪魔するぜ」
「邪魔するなら帰ってください」
「お、そうか。悪かったな。じゃ―――って違ェだろ! 俺はどこの吉本芸人!?」
 
お約束のボケツッコミを交わし、銀八は生徒らの承諾を得ることなくズカズカと室内へと入り込む。
そう広くない室内の半分を機械で埋め尽くされた部屋。放送室。
機械に据えられたマイクの前に座って原稿を読み上げていた女子生徒を押しのけ、隣にいた男子生徒に「これ全校放送だよな?」と確認する。
これで教室棟だけの放送だったら意味が無い。男子生徒が唖然としながらも頷くのを確認すると、銀八は椅子に腰を下ろしてマイクと向き合う。生徒らの不審の目は無視して。
覚悟は決めてきた。
深呼吸一つ、銀八は口を開いた。
 
『あー、その。なんだ。聞いてっか、。聞いてるなら耳の穴かっぽじってよく聞いてろよ! 俺はな、坂田銀八は、この世で一番、をあ、あ、ああ、愛してんだよコノヤロー!!!』
 
肝心なところでどもってしまった。
だが取り繕っている余裕など今の銀八には無い。それに、下手に取り繕う方が間が抜けている。
 
『だから俺から逃げんじゃねーよ! 逃げてねェで、俺のトコに嫁に来いって言ってんだよ俺は!!!』
 
言った。言ってしまった。しかも全校放送で。
言いたいことだけ言ってしまうと、マイクのスイッチを切って銀八はその場で脱力する。全精力を使い果たしたとばかりに。
呆気にとられている生徒たちの存在は無視し、銀八は今後のことを考える。
が校内にいるのが確実である以上、今の全校放送を絶対に耳にしていたはずだ。ならば何らかの反応があるだろう。多分。これで何も反応が無かったら、恥のかき損どころの話ではない。死にたくなること請け合いだ。
あるはずの反応が、一体どんな形で返ってくるのかはわからないが。
わからないから、からの反応にどう対処すべきか、シミュレーションもできない。できたとしても、いざとなってその通りに行動できるかは甚だ疑問でもある。
頭を抱えて悩むことしばし。
突然室内に響き渡ったコール音に銀八は肩を跳ねさせた。
一瞬何の機械音かと思ったものの、すぐにそれが放送室に備え付けられた校内の内線だと知れる。わかった瞬間に受話器に手が伸びたのは、それがからのものだと期待してしまったせいか。
しかし内線の向こう側は、期待に反してではなかった。
 
『この能無し天然パーマァァァ!! なに放送室を私物化してんだィ!!!』
「……なんだ、ババアかよ」
『なんだじゃないよ、このバカが! 今すぐ理事長室に来な。いいね、今すぐだよ!!』
 
ガチャン、と派手な音を立てて通話が切れる。どうやらと対峙する前に、理事長からのありがたくない説教を頂く羽目になりそうだ。
無視する事は簡単だが、そうすると後々面倒だ。
溜息をつきながら受話器を戻すと、銀八は立ち上がる。
未だ呆気にとられたまま、それでも反射的に「どこに行くんですか?」と尋ねてきた報道部員の一人に「理事長室」とだけ簡潔に答え、銀八は「邪魔したな」と放送室を後にした。
向かうは理事長室。気分としてはそれどころではないのだが、からの反応を待つしかない現状、他にやるべき事も見当たらない。
廊下を歩けば、今の放送を聞いていたのだろう。好奇心旺盛な生徒達が教室から顔を覗かせる。興味津々なのだろうが、生憎と今の銀八にはそれに応えてやる余裕は全くと言っていいほどに無い。
お登勢からの説教を聞き流しつつ、如何に今後の対策を練るか。どうすればを引き止められるのか。
そんなことを考えながら、生徒らの好奇の視線を無視して理事長室の前までやってくる。
 
「入るぞ、ババア」
 
ノックも何も無く。無遠慮に扉を開けた事に対する咎めの言葉は無い。いつもの事ではあるし、今はそれよりも校内放送の私物化の方が問題なのだろう。
と思いきや。
日の差し込む理事長室。
そこには呼び出した張本人たるお登勢の姿はどこにも見当たらない。
ただ、が。だけが、逆光の中で立っていた。窓の外を眺め、扉に背を向けるように。
思いもかけない展開に、銀八の思考が止まる。
あれだけ探しに探していたが、こんな場所に。まさか理事長室に隠れていたとは。だからこそのお登勢からの呼び出しだったのか。
不意打ちの出来事に、脳裏は真っ白。一体どう対処していいのやら銀八にはまるでわからない。
開け放したままだった扉が、音を立てて閉まる。その音がやけに大きく聞こえたが、それを気にする余裕も無い。
ややあって、がゆっくりと振り向く。瞬間、ふわりと舞うワンピースの裾。それはいつか銀八が買ったもの。
いつだったか。生徒たちが話題に出していたのを思い出す。「先生って、あのワンピースよく着てるよね」「お気に入りなんじゃない? すごく似合ってるし」と、他愛の無い会話に密かに喜んだものだ。
銀八が選んで、銀八が買って。それを生徒達に覚えられるほど何度も着ているが可愛いと、心底思ったものだ。
そう、は気に入っているはずなのだ。このワンピースを。
好きでもない男から贈られた服を何度も着るような女ではない。それは裏返せば、が銀八のことを好いてくれている何よりの証拠ではないか。
一瞬でもの想いを疑ってしまった自身を、銀八は殴りつけたい衝動に駆られる。
だが、と銀八は思い直す。
それならばとて、銀八の想いを信じてはいなかったではないか。信じていないからこそ、妊娠の事実に、銀八の前から逃げ出したのだから。
たとえそれが、一度も愛の言葉を伝えた事が無かったことに起因していたとしても。態度でわかりそうなモンじゃね? とは勝手な言い分か。なら悟ってくれていると勝手に思い込んで。
不安に、させていたのだろうか。
そしてそのの瞳は、未だ不安そうに揺れている。
 
―――今の校内放送、聞いてただろ」
 
銀八の言葉に、がコクリと頷く。
できることならば、それだけでからの返答を何か期待していたのだが、しかしは変わらず黙ったまま。何も答えようとはしない。
頷いたまま俯いてしまったに、一体どうしてやればいいのか。
あの校内放送を聞いて尚、信じてもらえないのかと、銀八は気落ちしそうになる自身を奮い立たせる。
どうすれば、信じてもらえるのか。どうすれば、との距離が縮まるのか。
 
「言っとっけどな。責任とかそんなん考えてるワケじゃねェからな。でなきゃ……でなきゃ、こんなモン都合よく持ってるワケねェだろ」
 
そう口にしながら銀八が白衣のポケットから無造作に取り出したのは、小さな箱。を探し回って職員室に寄った際、何かのためにと鞄から取り出して突っ込んだもの。
本当ならば、こんな状況で渡したいものではなかった。銀八なりに状況とタイミングを図り、それでも図りきれずに今まで渡せずじまいだったものだ。
こんな事になるのであれば、さっさと覚悟を決めておけば良かったと思っても、後の祭り。だが今は呑気に後悔している場合ではない。
顔を上げたの前で、箱の蓋を開ける。陽射しを受けてきらりと煌くそれは、なかなか渡せずにいた―――婚約指輪、だった。
はっとが息を飲むのがわかる。それはきっと、拒絶の意味ではないだろう。そう信じて、銀八は一歩を踏み出す。それに対してが逃げる気配は無い。
理事長室が広いとは言え、所詮は室内。すぐにの前へと到達した銀八は、信じられないといった表情を見せるの左手を取った。
拒絶の無いその左手の薬指に、すっと指輪を嵌めてやる。
今まで指輪を買ってやった事もない。が、その指輪はの細い指にぴったりと収まっていた。まさかが寝ている隙に苦心してサイズを測っていたなどとは、死んでも教えてやるつもりはない。
驚いたように、指輪と銀八の顔を交互に見やるの顔は、未だに信じられないと訴えている。
だが、信じてもらわなければ困るのだ。
 
「……で、返事くんねェの?」
「え、あ…わ、私……」
 
口篭り俯いたの左手を握ったまま、銀八はじっと返答を待つ。
本音を言えば、身体を揺さぶってでも今すぐ答えを貰いたいところだ。がどんな答えを返してくるのか不安で、心臓が頭にあるのではと思うほど煩く脈打っている。
時間にしてたっぷり数十秒。だが銀八にとってはそれ以上に長い時間に感じられた。
 
「わ、私、私……っ!!」
 
ようやく顔を上げたの目に浮かんでいるのは、涙。
それが溢れ出したかと思うと、銀八に縋ってはわっと泣き出してしまった。「ごめんなさい、ごめんなさい」と幾度も繰り返して。
一瞬、それが拒絶の意味かと焦ったが、それにしては縋りついてくるのはおかしい。
の謝罪はきっと、銀八の事を信じきれなかった、その点についてなのだろう。都合の良い解釈かとは思ったが、の背に腕を回しても拒絶されないところを見れば、あながち間違っている訳でもないと思いたい。
謝るべき事は銀八の方にもあるというのに。
お互い様、という言葉は胸の内だけに留めておいて。銀八が欲しいのは、謝罪の言葉などではないのだ。
泣きじゃくるを宥め、その身体を離す。その濡れた瞳を見つめ、再度言葉を促した。
 
「で、返事は?」
「あの……わ、私、なんかで、いいん、ですか……?」
「それは俺の台詞だっての」
 
の言葉に、思わず銀八は苦笑してしまう。一体全体、こんな男のどこを好きになってくれたというのか、は。
やはり一度ゆっくりと問い質してみよう。だがそれは、今やるべき事ではない。
恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに笑みを浮かべるのその口元へ、そっと口唇を寄せ―――
 
「うわぁぁあっ!!?」
「押すなバカ!!」
「重いネ! お前らさっさとどくアルヨ!!」
「って言うかバレたぜィ、俺らの存在」
「惜しいところだったわね」
「ああっと! 我々の存在がバレてしまいました! 肝心な場面をお伝えできず申し訳ありません」
 
バタン、と大きな音。そして唐突にあがった声に振り向けば、入口の扉が開いて、そこから見覚えのある生徒らが雪崩れ込むように倒れている。更にその後ろでは、確か放送室にいた女子生徒がカメラに向かって淡々と状況を伝えている。
何事かと思ったのは一瞬。状況を理解し、銀八は頭を抱えたくなった。
どうやら生徒らの目の前で一連の恥ずかしいやりとりを繰り広げていたらしい。しかもカメラまで回っていたとは。一体いつの間にZ組の生徒、どころか報道部の連中までついてきていたのか。
ぱちくりと目を瞬かせているは、未だ状況を把握できていないのか。
この際だ。毒を食らわば皿までも。他人の期待に応えるつもりはないが、知らしめるくらいはいいだろう。
開き直ったのか、「先生、今のお気持ちは」などとマイクを向けてくる女子生徒に、銀八もまた開き直る。
そして。
 
返事をする代わりに、を再度抱き寄せ口吻けたのだった。



<終>



本当は3と4で一話になるはずだったんですが……思ったより長くなりすぎました。
全校放送で愛の告白、なんて場面を書きたかっただけでした。スミマセン。
そして蛇足はコチラ

('08.04.14 up)