氷雨慕情
冬の雨ほど憎らしい天気は無いと、そう銀時は思わずにいられない。
いっそ雪に変われば良いものを。冷たい雨はただひたすらに冷たいだけで、憂鬱とした気分にさせる。
思い返せば朝から確かにどんよりとした空模様で、お天気お姉さんも「本日は傘を持ってお出掛けください」と言っていたし、も「今日は洗濯物がお外に干せませんね」と残念そうに口にしていた。
もしがいつものように問答無用で憑いてきていたら、家を出る際に傘を持つよう言ってきたかもしれない。
だがいつも銀時に憑いてまわるは、泥沼愛憎劇場たる昼ドラに夢中になっていた。そしてその隙を狙ってこっそりと外に出てきたのは銀時。傘を持ち出すことをすっかり失念していたのは明らかに自分自身の失態だ。
自業自得とも言える現状に、銀時は溜息しか出てこない。パチンコは負けるわ、外に出てみれば雨だわ。家にいてから昼ドラの感想と愛についての演説を延々と聞かされるのと、どちらがマシだったろうか。
しかし今更考えたところでもう遅い。
所持金は限りなくゼロに近く、再び店内に入って雨が上がるまで待つという案は却下。どうやら風邪をひくこと覚悟で、冷たい雨に濡れて帰らねばならないようだ。
再び吐いた溜息。諦めて軒下から走り出そうとした銀時を、しかし引き止める声があった。
「銀時さん」
涼やかなその声に、はっとして周囲を見やる。と、建物の陰からこっそりと手招くの姿が。反対の手には銀時の傘を持って。
「私に黙って出掛けたりするからですよ?」
笑いながらの言葉は、咎めるというよりも悪戯が失敗した子供を前に面白がっているよう。対する銀時は勿論面白くなどない。
が、の言葉は今回に限ってはもっともであるし、何より傘を持ってきてくれたのだ。
歩み寄って傘を受け取ると、傘を開いて空の下へと出る。冬の雨は冷たく寒い。
さっさと帰るのが一番と歩きかけたところで、ふと気になって銀時は振り向く。
「そういや、お前の傘は?」
「え? あ……私には、必要ないですから」
ね? とにこりと微笑むの身体は、雨の中だというのにまるで濡れた様子がない。
それもその筈、は実体を持たない幽霊なのだから、雨粒がその身体を素通りしていく。確かにこれならば傘は要るまい。
傘は雨に濡れるのを防ぐためのもので、濡れないのならば防ぐ必要はない。すなわち傘も必要ない、との結論は確かに出る。
だが。
「ほら、入っていけよ」
「え? あの、でも……」
「いいから入ってけっての」
かと言って、すぐ後ろから憑いてくる女が雨の中だと言うのに自分だけが傘をさしているのはどうにも具合が悪い。たとえ相手が幽霊なのだとしても。たとえ他の人間からはその姿が見えないのだとしても。
だから今の銀時のこの行動は、傍から見ればさぞや滑稽であることだろう。何せ誰もいない場所に話しかけ、傘までさしかけているのだ。滑稽を通り越して不気味、そのうち警察なり救急車なりを呼ばれかねない。
もそのあたりはわかっている。しきりに周囲へとちらちらと目をやるのは、こちらに胡散臭そうな視線を投げられていないか気にしてのことだろう。それは他人からは姿の見えない自分ではなく、銀時を慮って。
気を遣うのであれば最初から憑いたりしなければ良いものを、と思わないでもない。
だが今の問題は、雨の中気まずそうに落ち着かない様子のだ。
幽霊なのだから、雨に打たれる訳でも濡れる訳でもない。しかし冷たい冬の雨の中にいられては、わかっていても銀時の方こそ落ち着かない。
「早くしろって。このままじゃ不審者だろ、俺が」
「で、ですけど、私……」
「あー、ったく。グダグダ言ってんじゃねーよ。気分の問題なんだよ、気分の」
そう言って強引に傘を差し出せば、ようやく諦めたようにが傘の下へと入ってきた。しかし本来傘は一人用、そこに二人入ればどうしても多少は濡れてしまう。おまけにが遠慮して銀時と距離をとろうとするのだから尚更だ。
「いいからこっち寄れって。意味ねーだろ」
相手が普通の女であればその腕を引くところだが、生憎とは幽霊。掴もうにも手はその体を素通りしてしまう。引き寄せることができないならば、自分から寄るしかない。
何が哀しくて自ら幽霊などに近付かなければならないのか。そうは思っても、放っておけないのだから仕方がない。
それは結局のところ。
「男の矜持ってヤツなんだよ」
驚いた表情を見せるに、ポツリと銀時は答える。
たとえ相手が幽霊であれ、女子供を雨の下に放置しておくことなどできはしない。ただそれだけのこと。
吐きかけた溜息をその矜持で何とか飲み込む隣で、が頬を染める。
「ありがとうございます、銀時さん」
嬉しいです。
はにかんだ笑みで素直に心情を吐露するのその顔は、もし他の通行人らにその姿が見えたならば十人中十人ともについ目で追ってしまうのではと思うほどに、可愛らしいもので。
だがそんなの笑顔を見られるのは、この場には銀時ただ一人。
その事実に僅かなりとも優越感を覚えたのは、しかし束の間。一体何故自分がそんなものを覚えなければならないのかと、銀時は即座に否定する。
相手は幽霊なのだ。幽霊の姿など、見えない方が良いに決まっている。そのはずだ。
銀時の葛藤には気付いていないのか。が遠慮がちにではあるが、そっと銀時のそばに寄り添う。それはきっと、に傘をさしかける銀時が濡れてしまわないようにという、配慮なのだろうが。
瞬間、ふわりと甘い香りが立ち上り鼻腔を擽ったような気がして。
くらり、と。銀時は目眩を覚えた。
<終>
本当は梅雨の季節に思いついたネタでした。
ようやく書こうと思ったら秋雨の時期でした。
やっと書いたと思ったら真冬でした。
……何やってんだ私。
('09.02.06 up)
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