大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法

古代日本語のアスペクト

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私:日本語のアスペクトの起源について書かれた書物が手元に見当たらない。やむを得ない、今夜も思考実験をしよう。若し間違っていたらごめんね。ところでアスペクトの大元である存在を示す動詞、所謂、存在詞、と言えば、ラ変「あり・をり・はべり・いまそかり」と自ワ上一「ゐる」だよね。
君:アスペクトという点で庶民言葉のみに絞りましょう。「あり・をり・ゐる」
私:「をり」は中世から近世にかけての、ラ行四段化から生まれた動詞にて、「あり」の母音交替形。あるいは「あり」が「ゐる」連用形「ゐ」に接続した複合動詞「ゐあり」との説もある。つまりは「をり」は「あり」より新しいのは明らか。従って、古代のアスペクトは思い切って「をり」を切り捨てて「あり・ゐる」の二語のみで討論できないだろうか。
君:「〜しとる」つまりは「〜してをる」をかなぐり捨てようというのね。ほほほ
私:「〜しておる」のほうが「〜している」より古い、歴史あるような印象だが、実際は逆なんだよね。それともう一点、誰でも考えそうな事と言えば、全国各地の方言となると「〜してあり」のアスペクト表現が残っていそうな気もするが、パッと思いつかない。促音便で「〜したった」なんて言い方がどこかの地方にありそうな気がするんだけどね。「〜したったぞ」とかね。でもこれは「〜してやったぞ」の短呼化かな。ところではっと気づかされる事だが、なんと東京語のアスペクト「愛してる」のほうが西国方言のアスペクト「愛しておる・愛しとる」よりも古い言葉。というか、「愛してる」は古代からの和語なんだ。意外だね。ぶっ
君:悲壮で皮相の佐七、それはアスペクトの概念を考え詰めると実は間違いよ。古代なら、まずは完成相が「つ・ぬ」、そして不完成相がこれらの無い裸の動詞。つまりは古代のアスペクトは完成しているかそうでないか、「つ・ぬ」の有無で区別という事から始まったのよ。Thereafter had appeared an notion of aspect in the ancient Japan.
私:なるほど、じゃあ「してゐる」は現代日本語に通ずるアスペクトであり、古代のアスペクトとは関係ない訳だ。
君:更には古代のアスペクトには完成相の更に上位概念「パーフェクト」というものがあり、それは「たり」。つまりは「たり」は「すっかりやり終えた。どんなもんだい」、「つ・ぬ」は「今、なんとかやり終えたところです。ふう疲れた」、裸動詞は「やるか・やらないか、普通はやりますけれど保証の限りではありません」というような区別があるのよ。完成度の三段階、利口な高三なら即答。
私:なるほど現代語のアスペクトは「今やっているところです」の意味だから古代における「つ・ぬ」と裸動詞の中間の概念だったのか。つまりはアスペクトの細分化、というか完成度の四段階、これがザ・日本語の歴史。ちょいと考えれば誰でも気づく事。
君:まあ、そうね。
私:現代語のアスペクト、特に各地の方言においてだが、「しよる」「しとる(してをる)」「してる(してゐる)」などが代表で、飛騨方言だと「しよる」が主に使われるね。やはり飛騨方言は文法的には畿内文法だな。
君:伝統的方言、つまりは戦前辺りの、という枕詞が要るわね。飛騨方言「しよる」は既に死語に近いわよ。戦後は東側、それが飛騨方言文法。
私:そうだね。ところで「しよる」の語源は何だろう。執筆者の名誉のために出典は伏せさせていただくが「しをる」の転という説があるようだが、根拠は何なのだろう。自ラ下二「しほる萎」という動詞がある。「しほほに」の語基「しほ」に接尾語「る」の接した語で、これが後代に「しをる」に変化する。つまりは「しをる萎」は「をる居」とは無関係。やれやれ。
君:語源大明神様、あなたこそ飛騨方言のアスぺクトの正体に「し為」+自ラ四「よる寄」などというとんでもない説を堂々とお披露目して。
私:ははは、遊び心というやつだ。「しよる」の語源は誰にも分らない。ただし僕の説は古典文法的には、つまりは活用としては矛盾がありませんという事を言いたいだけ。結論だが、若しかして古代も現代もアスペクトは実は「ゐる」の事だな。
君:あそびタリ あそびツあそびヌ あそびゐる ありヲリはべり いまそかる君 ・・・なのよね。
私:然り。 つ・ぬ・たり ゐる・ゐあり・をる アスペクト しより・しとり・てる アリあらずして。
君:左七 アスペクトの正体「ゐる」にて「あり」にあらざる事に気づきて詠める。ほほほ
cf 日本語の動詞と語彙アスペクト ―岡山県津山方言の「しよる」「しとる」の用法調査中間報告―

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