大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法

パーフェクトがお好きでなかった紫式部

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私:昨晩はテンス、アスペクト、パーフェクトについて学んだ。
君:表題から言いたい事は丸わかりだわよ。紫式部の源氏物語の語彙はナリ活用のみでタリ活用が無い事についてお書きしたいのでしょ。
私:その通り。その前に、古典総合研究所というウエブサイトがある。ここで源氏物語の全文検索が簡単にできる。運営者は上田英代女史。元高校国語教諭。文部省研究員となり源氏物語のデジタル化を完成させる。私より四年ほどご年配のお方のようだが、世の中には凄い女がいたものだ。脱帽
君:源氏研究の著書・論文は枚挙に暇が無いわよ。変な事を書いて火傷をなさらない事ね。
私:うん。難しい事を書く事も無いだろう。源氏物語の延べ語彙数は約二十万語、異なり語数で言えば約一万語。そしてナリ活用・タリ活用については拙稿形動タリ・形動ナリもご参考までに。上田英代女史のサイト情報・古典用言単語帳 −源氏物語版−によればナリ活用は103個、そしてタリ活用はゼロ。
君:昨晩のあなたの記事から言える事は、タリ活用とナリ活用の違いはアスペクトの有無。つまりはタリ活用にはアスペクトの中でも最上位段階のアスペクト、つまりパーフェクト、があり、ナリ活用にはそもそもがアスペクトが無いので、つまりは紫式部がタリ活用を避けてナリ活用のみで書き上げたのはアスペクト表現を嫌ったという意味があるのでは、という(平凡な)推論ね。
私:うん。要はそういう事。形動タリには漢語が多く、形動ナリには和語が多い、等々、形動ナリ・タリの挙動の違いについては多くの学術書に書きつくされている事だろうけど、アスぺクトにおけるパーフェクトの概念は比較的新しい考えだから、この点についてはあまり着目されていないのでは、とフト思った。それだけの事。
君:つまりは随想という事で。でも、はっきり言って三段論法みたいな味気ない論法だわね。もう少し情緒のあるお話にならないかしら。
私:形動タリは口語文法では「だ・です」に変化したんだよね。「と・あり」からスタートして「たり・であり・だ・です」に変化したんだよね。ナリ活用はそうはならなくて形容動詞化した。「美人だ・美人です」と言うし、「綺麗な人」とも言う。然し、あまり「美人な人」とは言わない。
君:当たり前よ。「美人な人」とは「美人」の事。「人」が重複するのはナンセンス。
私:今、ネット検索してみた。「美人な女性」の語彙は少ない。「綺麗な女性・素敵な女性」あたりが圧倒的に多い。なぜだろう。
君:単なる言葉の傾向。
私:「美人」というのは「前からずうっと美人」という事で、やはりこれはアスペクト的にはパーフェクトだ。それに「女性」。生まれつき人間の性は決まっている。つまりパーフェクトの概念を名詞に広げると「女性」という性を表す言葉もやはりパーフェクト性が成り立つ。つまりは「美人な女性」はパーフェクトの重なりがあるから、つまりはくどい言い方になるからじゃないのかな。その点、「綺麗」は単なる修辞、つまりパーフェクト性が無い。否寧ろ、源氏に登場する女性達は成長するにつれ輝きが増す。ある時から綺麗になる。そのような言葉の美学が働いているのでは。
君:「美人の女性」はどうなるの。
私:「女性ナリ」は合格の言い方だが「女性タリ」はアウト。つまりは「女性」は体言であって、用言ではない。「女性の美人」も国語的にはアウトでしょ。「美人」は用言であり、しかも「美人な」が成立しないからタリ活用で決まり。紫式部は綿密にパーフェクト性の無い語彙を選び物語を書きあげ、読者に意味解釈を深堀りする事を期待したのでは。
君:考えすぎ。もっと単純に。漢文スラスラの才女だったけれど、清少納言と違ってそれをひけらかす事を嫌い、和語とナリ活用という文学を書き上げたのじゃないかしらね。ナリ活用のみの文学とは、パーフェクト性抜きの文学というよりむしろ漢語・タリ活用抜きの文学、つまりは和語の文学。ほほほ

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