大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 地名考

かどわさ(門和佐)

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私:国道41号線の下呂市焼石あたりに、至門和佐、の道案内があるので、今までずうっと地名の由来について気になっていた。飛騨川の支流に門和佐川があるが、門和佐はその川上の集落名だ。
君:あら、由来が分かったのね。
私:うん。例によって調べた資料は二つ。平凡社郷土歴史大辞典(21巻岐阜県の地名)、角川岐阜県地名大辞典、この二つ。
君:手短にお願いね。
私:うん。角川岐阜県地名大辞典に由来が書かれている。そもそもが飛騨川の左岸に和佐村というのがあって、門和佐は実はその上流にある集落。つまり下流の和佐に対して上流にある和佐という事で上津和佐の意か、との記載がある(後風土記)。
君:かみつわさ。つまりは「つ」は上代の格助詞ね。
私:その通り。おきつしらなみ、と言えば、沖の白波、という意味。但し、後風土記と言う部分が問題。これは日本史で学ぶ風土記とは似て非なるもの。
君:違いを簡単に説明してね。
私:風土記は奈良時代に諸国が地勢を天皇に献上した書物。完本は出雲国風土記のみ。斐太国風土記は写本すら無い。後風土記は幕末の高山代官所地役人頭取・富田礼彦(いやひこ)による書物で大正に出版された。富田は国学者・田中大秀に師事、つまりは、上津和佐の意か、は田中大秀的発想という事でしょう。
君:そのどこがいけないの?
私:一つには上代の格助詞が飛騨の山深いひっそりとした集落の名前という点がね。第一に確たる証拠、つまりは上古からの書物・斐太風土記が無い。もう一点は、飛騨川の対岸で和佐村の近くに門原(かどはら)がある。後風土記の記載は、クズの繁茂する原・葛原が転化したものか、との記載だ。つまりは後風土記は書きたい放題の書物。飛騨川を挟んで門和佐と門原があるのに、前者は上代の格助詞、後者はクズ葛、が語源ではないかとはこれ如何に??
君:どうやら、地名の由来については不明です、と考えたほうが無難ね。
私:その通り。でもはっきりしている事がある。門和佐は和佐村の上流に隣接し、行政的にも和佐村の一部。それと和佐と言えば普通は名字。稀な名字で圧倒的に和歌山県に多く、岐阜県は皆無に近い。この辺りも謎に包まれた岐阜県下呂市の和佐・門和佐という地名。もっともね、江戸時代になると各種の書物に門和佐が出て来る。慶長10年(1605)5月23日の実蔵坊飛騨檀那目録案あたりから。つまりは江戸時代から人は住んでいた。それどころか濃飛国境の佐見郷(白川町)へ向かう道の分岐点には口留番所(門和佐口)が置かれ、勤番一名が詰めた。飛騨は天領、従って門和佐口勤番は江戸時代の国家公務員だった。
君:ほほほ、なるほど。口留番所とは簡単な関所の事ね。
私:つまりは門和佐は飛騨と美濃の国境の村。意外や意外、門和佐の門は門番の意味かも。何の根拠も無い、たった今、思いついた左七の珍説だ。笑いたい人は笑ってくだしゃんせ。
君:そうなんだわさ。ほほほ

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