大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

飛騨地名考・益田川

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国民の皆様へ、飛騨川と言う河川名でピーンと来る方は地図オタクという事でしょうか。飛騨川は木曽三川の木曽川の大支流で乗鞍岳が水源の太平洋側の川で、いくつものダムがあり、川に沿って有名なのが下呂温泉、最後は可児市で木曽川に注ぐのです。なんでも河川法では飛騨川源流から木曽川に合流するまでをすべて飛騨川というそうですが。木曽川との合流点は可児市の川合考古資料館をキーワードにグーグル地図をご覧ください。

この飛騨川の上流域の事を益田川・ましたがわ○●▼○○というのですが、うーむ、狭義と広義があるようですね。狭義では旧益田郡内の小坂・おさか〜金山・かなやまの間を言い、広義では水源地から旧益田郡金山町地内の飛騨と美濃の境までを益田川というそうな。また狭義の場合、益田川の上流は阿太野川とよばれていたそうですが、明治時代以前の事でしょうね。

さて国民の皆様は、いったい全体、佐七は何をぶつぶついってやがんだい、という事でしょう。そのような皆様はパスしてください。

やっと本題です。さて飛騨人の中でも、旧大野郡の高根・朝日・久々野にお住みの方に質問です。大野郡を流れているのに何故、益田川なのでしょう。おかしいと思いませんか。大野川のほうがいいじゃない。小坂・萩原・下呂、つまり旧益田郡の方々が飛騨川を益田川というには何も問題はないでしょうにねえ。

もったいぶらずにいきなり答えですが、実は明治時代までは益田郡だったから。高根・朝日・小屋名・大西・柳島・久須母までの地域はなんと戦後しばらく、つまりつい最近まで(ました)益田郡(あだの)阿太野郷だったのでした。上記の地名が益田郡から突然に大野郡になったのは昭和二十八年、私が生まれた年、町村合併促進法が公布された年です。つまりは生まれも育ちも大野郡の佐七は一年早く生まれていれば、なんと益田郡に生まれていた事になります。行政の線引きなんてのは所詮、こんなものなのよ。

もうおわかりですね。高根村、朝日村、久々野村の一部・つまり小屋名から久須母まで、の三者は明治・大正はいうに及ばす、江戸時代も、そのまた昔も、つまりは、古代は全体が大野郡であったのだけれども大野郡はあまりにも大きすぎるから南半分を益田郡としよう、と宣言したあたりから益田郡なのでした。道理で、既に廃校となった我が学びや・大西小学校ですが、校歌に、流れゆたけき益田川、とある事が理解できます。

下流益田郡・つまり小坂・萩原・下呂・金山では益田川と呼ぶなら、わしら上流の大野郡の村・高根・朝日・小屋名・大西・柳島・久須母も益田川と呼ぼうか、というほど、人間というものは素直には出来ていないのです。元々益田郡だったから益田川と呼んでいるのです。呼び癖が続いてしまって、大野郡になっても益田川と呼んでいるのです。頭の切り替えができない、しょうもない佐七と佐七の一族。

ところが平成の大合併で、大野郡高根村・大野郡朝日村・大野郡久々野町は消滅、高山市に吸収されました。がしかし川の名前が高山川に変更されたかですって、第二宮川に変更されたかですって。たわけたこというない。今も昔も、旧大野郡を流れていた益田川。今は理論的には高山市を流れている事になっているかって、たわけたこというな。昔から益田郷の益田川じゃぞ。飛騨川なんて川はねえぞ。飛騨川はよそもんが考えた言葉じゃさ。

以上は私なりに考えたギャグですが、国民の皆様には単なる佐七のヒステリーって事なのでしょうか、でも飛騨の人には笑ってもらえるかも。ほんと、飛騨全体でね、益田川っていえば、かえって通じるんですよ。尾張を流れているから尾張川なんていわないでしょ。再び佐七が吼える、どこを流れているか、飛騨を流れているって??!!当たり前のたわけた事をいわないでね。益田郷を流れとるんやさ。
おまけ・久々野の人に笑ってもらいたい
実は久々野村と久々野町渚つまり旧大野郡河内村、この二者は古代から大野郡なのですよねえ。一度も益田郡になった事がない。でも上流も下流もずうっ古代から益田郷だったから、しかたなしに、同じ川の流れをいやいやと益田川、っておっしゃってたんですねえ。あんただちゃあ、ホント人間ができてござって、偉いわあ。久々野と渚の間を、ここだけは大野川やぞ、なんていうと、上流からも下流からも、益田川やにゲバイタ事いうな、って叱られるんでないがよ、って気遣いなさったんやろ?つまりは久々野町反保から渚までは、古代からずうっと、日本の歴史ととともに、大野郡なのに益田川。つまり、これからもね。

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