大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

乗鞍という名前についての一考察

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乗鞍岳の語源を少し考えて見ましょう。 つまらない、くだらない、馬の鞍の形の山だから、と思った方よ、さようなら。 まずは角川日本地名大辞典・巻21の記載ですが、 最高峰・剣ケ峰あたりの火口丘の連なりが 飛騨側からは丁度、馬の鞍のようにみえる事から 名づけられた、とあります。

ところが途端に佐七はわけがわからなくなりました。 佐七はかつて富士の裾野をぐるりと回りました。 富士山はどこからみても円錐形ですが、 つまりは乗鞍は長野県側から見ると鞍の形をしていないのですね。 その中間点たる野麦峠からみると何の形に見えるのでしょう。 もっとも、筆者の生まれ育った大西村から眺める 乗鞍岳は鞍のまさに完全形です。 つまりは乗鞍を命名したのは大西村のご先祖様がた だったのかも、まさかね。

さて質問ですが、乗鞍岳には別名がありますか。 答えはハイ。実は江戸時代の天領飛騨の代官・長谷川忠崇の記した 飛州志には、騎鞍岳、と記されています。 それだけじゃあない、斐太後風土記では、くらがね、とも称しているのです。 勿論、古代から乗鞍岳と呼ばれていたのでしょうね。 日本史のおさらいですが、同辞典によりますと征夷大将軍・坂上田村麻呂・さかのうえのたむらまろ、 が斐太平定の折りに戦勝を祈願して登山したのが 乗鞍の歴史の始まりです。 日本人第一号、田村麻呂様すてき!! 途端に下種の勘ぐりの佐七節ですが、つまりは馬上の将軍・田村麻呂 が名づけ親ですわい。 つまりは乗鞍は明らかに田村麻呂の飛騨人へのプレゼントなのよ、がはは。

以後、山岳信仰の乗鞍ですが、実は畳平までは バスで行けますものね。そして約二時間の登山、 めざせ剣ケ峰ですがなんとハイヒールでも何とか 可能、実にバリアフリーなのです。ただしハイヒールは 登りのみ可、下りは不可です。

脱線しました。まじめに議論しましょう。 筆者なりに古代から乗鞍岳と呼ばれていたのでは ないかと推察しますが、その根拠は、 古語辞典を読めば、乗る・自ラ四、は万葉集に あり明らかに和語であり、鞍・名詞、も観智院三宝絵に あり、古代からの言葉でしょう。のる・くら、共に 和語ゆえ、乗鞍は和語そのものである、 というのが筆者の主張です。

まとめですが、佐七はいつも思い込んだら命がけ。 乗鞍を命名したのは馬に乗った田村麻呂に違いない。 若しまちがっていたら田村麻呂殿、佐七も男でござる、切腹(のふりを)します。 しゃみしゃっきり。
国民の皆様へ、佐七のおまけメッセージ
そうやで、乗鞍登山するんなら飛騨高山からで ないとだしかんぞ。
追加記事(2007/6/29)
乗鞍岳の名前について最も古い記載は 三代実録・貞観十五年(873)の、あわやま・愛寶山(愛宝山)、 でした。 当時の大野郡阿拝郷(和名抄)のやま、つまり、あわのやま、 の意味であり、長野県民の皆様へご愁傷様でした。 残酷な記事ですが事実は事実として佐七は お伝えせねばなりません。つまり、和名抄が解く由来は、 飛騨の国のあわの郷の山。 つまりは大西村の山といってもよい、キャッホー!

三代実録前の人・坂上田村麻呂(天平宝字2年(758年) - 弘仁2年5月23日(811年6月17日)) が登った山は飛騨人があわやまと呼んでいた可能性がある。 乗鞍、という名前が出てくるのは元禄の飛騨国絵図、 つまりは何時の時代から乗鞍と呼ばれたのかは不明です。 少なくとも江戸時代には乗鞍とも呼ばれていたという事でした。 では約束の通り、佐七は切腹のふりをします。

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