大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 地名考

大西村(その二)

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私:今日は飛騨方言ではなく地名のお話。しかも小さな村の名前。それは大西。
君:つまりは貴方が生まれ育った村。
私:ああ。高校卒業まで祖父母と両親、それに妹と弟、三世代七人の家族だった。大西村の中でも、我が家からは乗鞍がよく見える。村の外れではもう乗鞍は見えない。乗鞍の頂上が見える西の果てという意味で大西という名前の村になったのだな、と子供の時から直感していた。今もその気持ちは変わらない。
君:何をブツブツ言い始めたのかしら。既に発信済みの情報でしょ。
私:今日は資料をお見せしたい。ショッキングだ。
君:いいから、簡単にひと言でお願いね。
私:はいはい。斐太後風土記. 下(巻13至20,附録)。コマ番号92を見て欲しい。・・中昔に至り、年代不詳、大西某と云ふ郷士此の近き村を押領せし頃、此の地に居館を構へ住して、大西殿と称せしとたり。・・
君:あらまあなんと、大西という名前の豪族がいて御殿を建てていたと書かれているのね。
私:そう。書かれている。
君:著者は?年代は?
私:富田礼彦。大日本地誌大系刊行会。大正4-5。
君:信じるのね。
私:いいえ、信じません。絶対に。
君:どうして?
私:大西村には大西姓が一軒も無い。大西村は久々野町だが、町内にも一軒も大西姓は無いね。近隣の町村でも、うーん、聞いた事がありません。
君:ネット検索してみたらどうかしら。
私:それはとても素敵な提案だ。早速に調べたらひとつヒットした。岐阜県の苗字の由来地ここ
君:「飛騨国益田郡大西(岐阜県)をルーツとする」と書かれているじゃない。名誉なことだわよ。
私:全国に大西さんという立派なお方が多数おられる事は想像に難くない。ただし、私こと大西佐七をはじめとして、大西村出身で偉人と呼べる人は皆無です。私の大西村に限っては、大西は地名だけであって、名字ではないと確信する。
君:ネット情報を全否定するわけね。
私:そんな事は無い。国立国会図書館に斐太後風土記のデジタルコレクションがあり、そのほんの数行に着目し、「飛騨国益田郡大西(岐阜県)をルーツとする」とお書きになった凄まじい情報収集力には脱帽だ。
君:つまりは、斐太後風土記の記載が正しいと仮定する限りは同サイト管理人さんの記述は正しい、という意味ね。
私:そうなんだよ。大西村の歴史を紐解けば、★元禄検知反歩帳では益田郡阿多野郷大西だったが、★★1889年の市町村制施行に際して大野郡に編入され、大野郡久々野村大西となった。★★★1953年の町村合併促進法公布により大野郡久々野町大西に変更、★★★★平成の市町村合併により高山市久々野町大西となって現在に至る。
君:大西村は江戸時代は飛騨国益田郡だったのね。
私:その通り。ただし斐太後風土記の「中昔に至り、年代不詳、大西某と云ふ郷士」はいただけないね。何の根拠も無い。伝承のようなものだという事だけは認めたいが。ただし村には大西文庫という土蔵があり岐阜県指定有形民俗文化財。所蔵される文書は元禄7年(1694)から明治12年(1879)までの数百点。近隣の行政の中心であった事は間違いない。
君:でも名も無い村にしてはあれこれネット情報があったなんて素敵じゃないのよ。特に大西文庫のお話なんか。
私:そう思いたいところだが・・・
君:えっ、何か不満でも。
私:大西文庫については誇りに思う。但しですね、斐太後風土記を先ほど来、何時間か書けて読みまくってみたが、飛騨の全ての村について事細かに書かれているんだよ。つまりはなにも大西村だけが、何か由緒のある特別な歴史を持った村という事でもなさそうだ。
君:つまりは、貴方の結論は・・大西村は、やはり名も無い平凡な村。
私:正にその通り。そして富田礼彦さんというのは、ズバリ、地名フェチシズムの権現様だな。
君:ほほほ、貴方こそ立派な飛騨方言フェチよ。

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