世界遺産・白川村に指定されてからは、知らぬ人とて無く、観光客がどっと押し寄せ、良いか悪いか、にぎやかな所になってしまいました。佐七も、白川村が世界遺産に登録される前の年に、既ににぎやかになっていた村を訪れましたが、それは二度目の訪問でした。実は一回目は忘れもしません、筆者が中三、1968年、の秋のバス遠足です。少年佐七、ひっそりとたたずむ白川郷。でも、玄関から出てお見えのおばさんとバッタリ目があってしまったのです。彼女が怪訝な顔で私に言った言葉はたったひとこと、見世物じゃないからジロジロ見ないで。四十年経てすら昨日の事のように覚えている、佐七が半生忘れえなかった言葉、という事です。
前置きはさておき、実は飛騨でも古くから開けた地のようですね。平安末期に白川荘という名の荘園であったとの記載があるのです。平治元年1159、の藤原忠通解状です。続いての疑問は、村を流れる川が白川で、村の名前が白川、書くまでも無い事かも、だから村名の由来は川の名前からでしょうか。もったいぶらずに結論は、斐太後風土記によれば、霊峰白山・はくさん、の白水谷に発し当地を流れる大白川の水色が常に濁っていて、白く見えるから、という記載があるのが水色説の決定打資料です。川の水色が地名の由来、以上の説明で妙に納得してしまった方よ、さようなら。
実は斐太後風土記とは、古代の地誌・斐太風土記の事ではなく、明治になり、飛騨が高山県として独立するに伴い急遽、始まった事業、高山役所が各村々に触を出し、それを編纂した、と言う事で、明治初期・当時の白川村の人々の思いを単に記載した物、という所になりましょう。
やっと本題ですが、全国に白川という地名は多い。岐阜県内にすら可茂郡白川町がある。脱線になりますが、大野郡白川村と違い、この戦後生まれの町名は知名度は少ないものの、やはり白川村と呼ばれていた事もあるのです。また可茂郡白川村の歴史は、ご興味ある方は佐七にメールをどうぞ。さて白川町も流れる川は白川です。そして白川町の川・白川の支流が黒川。つまり、川石の色が由来です。佐七は白川町の白川も見たが黒川も見た。地名は体を現す、やはり川石からだ、と筆者は納得しています。
話を大野郡白川村に戻しましょう。実は白川村には御母衣ダムという巨大ダムができて、かつての白川の流れを想像する事は困難です。でも古代から白川村の民は川の流れを見て、白いと感じたのでしょうねえ。
さてインターネットはさまざまな情報がただで得られる実にありがたい図書館ですが、半分は嘘の情報であると説く社会学者もいます。当サイトは誠心誠意、正確をめざします。ほんまかいな。つまり、ここまで書けばお察しの良い方には書くまでも無い事ですが、白川村の由来は川の水が白いからなのか、川石が白いからなのか、本当の事はわからない。脱稿する前にあれこれ調べたのですが、大野郡白川村を流れる白川の由来は川石の色から、と明記しているサイトも発見して、やはり書かねばと思った私。ただし誤解の無いように、川石説は嘘だ、と言いたいのではありません。
結論ですが、危うし川石説、ま白にぞ流るる川水説が定説のようです。川水説は以下の書に記載されていますが、拠り所は明治の出版物・斐太後風土記です。しかし、後風土記とて何ぼの物でしょう。たかが明治、歴史は無い。お久しぶりF井先生へ、白川の地名が出てくる平安末期の藤原忠通解状以外に資料というものがないのでしょうかねえ。例えば、歌枕となっていて白川の流れやその川石を古代の人が詠んでいれば言う事なし。
悲しき我が故郷・飛騨、飛騨には歌枕がひとつもない。白川村の名前ひとつでもえな、川の水が白いか、川石が白いか、こりゃあ佐七にゃあ大変な問題なんやさ。ご参考までに、佐七が現地調査により白黒の決着をつけたのが可茂郡白川町でした。一首を急遽、白黒の石でやけずり可茂の夏。やけずり=やけど。しゃみしゃっきり。 資料 平凡社・日本歴史地名大系「岐阜県の地名」 角川日本地名大辞典21・岐阜県
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