高山市公式サイト情報、出版物・飛騨金森史、等から
高山市の由来について考察いたします。
はっきりしている事といえば、明治になって突然に廃藩置県、
突然に高山県が誕生、そして行政中心地の名前を、高山町、と
定め飛騨の高山の近代史が始まるのです。
県庁所在地なれど高山町、可愛らしい名前ですね。ふふふ。
ですから天領時代の江戸時代に、飛騨の高山、と呼ばれていた事は
書かずもがな。いやあ、それは無いかも、飛州高山と呼ばれていたのでしょうか。
さて、江戸時代になり、越前大野の金森長近が飛騨全体を幕府にプレゼントされてしまい、
お城を築きました。金森長近は城を高山城、城下を高山、と呼んだのでしょうか。
これが実は既にあやふやのようなのです。
正しくは天神山城、と呼んだようです。
がしかし、天神山は実は一般名詞、全国に天神山があり、
全国に天神山城・天神山城址があるのですから、・・やれやれです。
ところが、文政七年・1824年に加納東河とうが、の著わした
安河記やすがわき、では金森長近は飛騨一円を治め城下を
高山と名づけた、と記載しているそうな。(飛騨金森史)
でも、二百年以上前の事を加納東河は何故知っていたのでしょう。
単に思いいれを記したという事ではないでしょうか。
もう少し古い話になりますと、戦国時代ですが、飛騨各地は
幾人もの戦国小大名が割拠し、混沌の極みです。
そのひとりの武将が、高山外記たかやまげき、です。
永正年中、1504−1521、に多賀山・現在の城山、に
天神山城を築くのです。がしかしつかの間の事、萩原の三木みつき氏に
滅ぼされます。
飛騨の高山の地名の由来は、あるいはこの戦国の武将・高山外記、
であろうかという説が当然あるようです。
がしかし、私はどうにも腑が落ちないのです。実は高山外記はほんの一時期、高山の町を
平定した武将です。彼を滅ぼした三木自綱が何故、城下を高山と呼ばせましょうや。
あるいは戦国の武将はよく名前を変えます。
もともとが高山、という名前の町であったからこそ、外記は
己を高山外記と名乗るようになった可能性はないのでしょうか。
であれば、高山外記を滅ぼした三木自綱が城下を高山と呼び続けても
不思議は無いでしょう。
注目すべきは江戸時代の国学者・田中大秀、高山出身、
が、室町時代の飛騨の国司姉小路基綱が書いた八所の歌の裏書、この国の府・高山、について
記載している事でしょう。(飛騨金森史)
筆者が思うに、たかし・やま、共に和語、つまりは古くは縄文時代からの
日本古来の言葉です。
ですから、古来から高山と呼ばれていたのであろうと考えます。
高山には飛騨国分寺があり、奈良時代に既に立派な町ができていて、
日本の国の東の果てだったのです。
高山の町が、戦国時代から、あるいは江戸時代から高山と
呼ばれるようになったとすれば、奈良時代にその町は何と呼ばれて
いたのでしょうか。奈良時代も現在も飛騨は飛騨、これは間違いありません。
ですから奈良時代から飛騨の高山であった、と考えれば、
私は妙に戦国武将等の思いに合点がいく。
つまりは、由緒ある名前には誰もさからえない。
結論ですが、佐七は田中大秀を支持します。
しゃみしゃっきり。
おまけ
同じく戦国の武将、京極家の多賀氏・多賀山、の説が
ありますが、笑止千万という所でしょうねえ。
飛騨は鼻濁音の地方です。
多賀山説だけはどうにもいただけませんな。
どうでしょうか、金田一春彦先生。
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