いきなりぶっそうな出だしで申し訳ございませんが、
昨日のブログに悲しき広域地名・飛騨市の
事をお書きしました。
私も時々帰省しますが、ホント地元でよく聞かされるんですよ。
吉城郡飛騨町のくせして、高山市の人だちゃあ怒っとるんやぞ、って
事ですね。
今日は飛騨市の方から喝采を浴びそうな記事をお書きしましょう。
飛騨高山なんて名前は@@くらへ、というお話です。
さて筆者が生まれ育った時代、戦後ですが、飛騨全体がそりゃあもう鄙びていて、
観光高山だの、やれルルブだの、ほんのここ数十年の事ですものね。
昭和九年に高山線が全通するまで飛騨は陸の孤島だったのです。
何が観光高山ですか。というのがほんの序盤戦。
先ほどですが、飛騨の地名資料も
上梓しました。ですから今日のブログは一粒で二度おいしい内容です。
同資料をとくとご覧あれ、もはや明らかですね。
斐太風土記の資料はいざ知らず、平安時代以降ずうっと
飛騨には大野・益田・荒城、の三郷しかなかった。
高山はありません。つまりは高山は新しい地名なのです。
戦国の武将・高山外記に由来する、というのが
最有力情報ですが、筆者の大胆な予測はズバリ、
高山の町を命名したのは金森長近です。
つまりはどう考えても古川は高山より歴史があります。
金森長近が天神山に城を築いて、高山城じゃ、と宣言したのです。
町を直ちに作りましたがたった三つ、一之町村、二ノ町村、三之町村。
つまりは高山という城下町は金森長近抜きには佐七には考えられません。
ところで国民の皆さん、飛騨の皆さん、
越前大野から突然にお引越しをした金森長近は何故、
飛騨高山を飛騨大野と命名しなかったのでしょうか。
それ以前の疑問として、福井県にも大野があり、飛騨にも大野郡が
ある、しかも地続き、感激しませんか。佐七は感激します。
実はどうも大野という地名は、白山信仰にまつわるらしい
のです。白山の頂上から眺めると、どの方角を見ても漠たる荒野が大野に見える、
というのが越前大野と岐阜県大野郡の名前の由来らしいのです。
結論を急ぎましょう。
越前大野の領主であった金森長近が突然に隣の国・飛騨一国の
主となり、飛騨国の大野郷に城を築いたが、彼はその町を
高山と命名した。お察しの良い方に書くまでも無い事ですが、
彼は大野という地名を嫌ったのです。
敷衍すれば、新しい城下は高山でもなんでもよかった、と思っていたのかも知れません。
つまりは高山市が飛騨市を笑うのは結構、
しかしながら高山市とてとってつけたような名前、
古代史を知らぬ無教養の長近の心変わりだったのでしょう。
彼は城下を飛騨大野と名付けるべきでした。
明治の廃藩置県で、飛騨県・高山県・筑摩県・岐阜県、
と県名すらめまぐるしく変わった飛騨です。
それでも長近が城下を大野と名づけさえすれば、
大野県・筑摩県・岐阜県、と三回変わっただけだったのかも。
しゃみしゃっきり。
おまけ
佐七はいやしい農民の出ゆえ、兎にも角にも、
さむらいが決めた事が大嫌いなのです。
佐七は吼える、長近が決めたのであろう高山などという地名に悠久の歴史はない。
大野という地名こそが、益田・荒城・吉城と共に、飛騨では古代からの最も尊い地名なのです。
もっとも河原にころがっている
濃飛流紋岩、こちらの歴史は何百万年ですから、
秀峰・乗鞍の名前とおんなしでえな、佐七の心を裏切らんのやさ。
フォッサマグマから出てきたんやでなあ、日本そのものなんやぞ。
ありがてえんでねえがな。高校生の皆さん、地学ってホント面白いでなあ、
はりこんで勉強してくりょよ。
おりゃ国粋主義がよ、
高山なんて名前より濃飛流紋岩って名前のほうが好きなんやさ。
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