大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

「方言意識」 vs 「気づかない方言」

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飛騨地方では「ずるい」「狡猾だ」という意味で形容詞「こすい」を使いますが、従って飛騨方言であると記述して間違いないし、私の周囲、つまりは高山市周辺の親戚、同級生で知らない・話さないという人間はいないはずです。飛騨の人間の大半が知っているし、使っている言葉だと思います。ただし改まった場所で使用する事はまず無いでしょうね。飛騨人同士の日常会話で出てくるだけです。

そもそもが「こすい」は果たして方言なのか、という疑問ですが、これが実に微妙な問題なのです。厳密に言いますと「こすい」は方言ではありません。それでも令和に出版の小さな国語辞典には記載されない傾向です。つまりは最近はマスコミでもほとんど話されない言葉なので、当然でしょうね。ところが小さくても昭和の国語辞典には記載がありますし、またNHK出版の「新版日本語発音アクセント辞典(初版平成10年、第32版平成19年)」にも記載がありますので、平成の時代においてすら立派な共通語だった事が伺い知れます。

とは言っても、令和の現在、世の中には若い世代を中心として「こすい」という形容詞を聞いた事も話したこともないお方もおられ、また聞いた事はあるが意味は知らないというお方もおありでしょう。貴重なネット情報を先ほど発見しました。「こすい」は方言?それとも標準語? 都道府県別の使用率、調べてみたら...


これを見て一目瞭然ですが、青森・宮城・山形・福島の方々に「こすい」って共通語だからお使いになったらどうですか、とお勧めしても無駄な努力というものでしょう。「こすい」の使用は平成・令和の間に急速に使用人口が減少していて、やがては長野・岐阜・福井・和歌山・岡山・広島・愛媛・福岡・佐賀・長崎・熊本の方言として確立されるのでしょうね。それでもこれらの地域でもいずれは話されなくなってしまい、昭和文学が古典と呼ばれるような未来には、その未来の古語辞典に死語「こすい」として収載されるのでしょうね。

実は以上が前置きで、本日のテーマは「方言意識」です。実は方言学では立派な学術語です。その定義もあれこれありますが、例えば「田舎出が都会で方言を話す事に抵抗感を感ずる」とか、「京言葉って優雅な感じがする」とか、つまりは方言というものに対して人間が抱く感情ですが、私の場合「こすい、って言葉は本当は最近までは共通語だったから別に誰彼にこの言葉で話してもいけないことは無いのだろうけど、この言葉は方言だと感じている人が世の中には多いはずだから、正式の場では使わないに越した事はない」という感情ですね。あるいはどなたかが「えっ、この言葉って実は共通語でしたか、実はてっきり方言だと思っていました」とお思いになる事も「方言意識」です。

実は「気づかない方言」あるいは「擬似標準語」という学術語もあるのですが、これは明らかに方言であるにも関わらず共通語であると勘違いして方言を話してしまう事です。中部地方では尊敬表現「してみえる」などが「気づかない方言」の代表例ですね。ですから今回のトピックスは「気づかない方言」という学術語の反対語は「方言意識」という学術語である事につい先程ですが私が気づいた事です。この手の言葉が反対語辞典に記載されるべくもなく、先ほどは三省堂・明快方言学辞典を隅々まで読んでやっと推量出来ました。「方言意識」という学術語さえ手に入れれば後は簡単です。日本における「方言意識」研究の総本山は文化庁である事にもすぐに気づきました。国語に関する世論調査の通りですが、そうか、あの人達はこんな事をやっていらしたのか、という事ですね。非常に興味深い資料です。文化庁、がんばれ。
まとめ
方言について意識するのが「方言意識」、方言について意識しないのが「気づかない方言」

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