佐七は仕事柄いろんな方に可愛がってもらってありがたい事です。
笑美子さんですが、といっても六十過ぎの太っちょのおばあさんですが、
鈴蘭高原に別荘をお持ちでよく飛騨にお出かけなさるのです。
また鈴蘭高原から高山へのルートの途中は大西村という事で、そこを
通過される事も多く、
"また大西村のあなたの家の前をドライブしちゃいました。"
とおっしゃってくださる方があるのです(彼女とは私は実名のお付き合いと言う事で、
ペンネーム大西佐七は実は彼女には内緒です)。先だって笑美子さんが、
"いやあ私、スキーは実は滑る事が出来ないから、別に今年みたいな
暖冬でもいいわ、と思って鈴蘭に行ったわけ。で、高山でもお昼をしたんだけど、
おおきなブリがでて、びっくりしちゃったの。
どうしてえ?飛騨ご出身のあなたならうんちくきっとご存知だと思って。"
とお尋ねになるものですから、"ハハハ、飛騨鰤・ブリ街道の事ですね。"
という事で
ネット記事から得られる情報などを多少の脚色でお披露目したのです。
さて以上がとにもかくにも前置きで、以下は本音で勝負の佐七節です。
飛騨鰤・ぶり街道については
市川健夫監修 鰤のきた道、発行所 オフィスエム、が
日本で唯一の専門書ではないでしょうか。
正確かつ真実に近いと確信します。
となりますと幾つかのネット情報はガセネタです。
ぶりを食べたのは実は飛騨高山の豪商の方々及び信州松本藩のお殿様だけ、
飛騨の庶民は戦前までは実はブリは食べていなかったでしょう。
戦後生まれの筆者自身も家が貧しかったせいか幼い頃に食べた記憶はありません。
教条的になってもいけませんが、日本が少し豊かになったからといって
富山湾で捕れる寒ブリを飛騨の人間が全員食べられるほど自然は豊かでは
ないのではありませんか。今、飛騨でにわかの二次ブームの気がする正月の年取り魚・飛騨ブリ
ですが、かつてのブリのように富山湾で捕れて塩もみして数日かけて飛騨に運ばれてきたものなのでしょうか。
またネット検索しますと、ブリ街道の祭りと称してあでやかな法被姿で魚の桶を担ぐ像が
いくらもでてきますが、すべて史実とは程遠い出で立ちです。
実際に冬季のぼっか歩荷が命がけで野麦峠を越えて飛騨高山から信州松本まで
ブリを運んだ出で立ちとは(上記著の抜粋)、
頭 手ぬぐいでほおかむり
更にはサンマイガサという笠をかぶる
背中 背負子ショイコという木枠のリュックサック
ここに重量60kgのブリの桶を背負う
雪がかかって重量が増さぬようにゴザをかける
体全体 えなこバンドリでつつむ
すそはミジッカという綿入れを装着
腰 蓑をつける
手 ニヅンボウという杖に命を託す
太腿 股引をはく
すね ハバキをあてる
足 ずんべという藁でできたズックを履く
でした。所謂、北アルプス山岳救助隊のような出で立ちで
真冬の北アルプスを白魔と戦って黙々と歩いたのがブリ街道
なのです。飛騨から
信州へブリを運ぶと十倍の貨幣価値で売れたのです。背中の荷物は信州では
米一俵分の価値でした。
だからこそ、ぼっかさんが命をかけて冬の北アルプス越えをしたのですわい。
だから笑美子さん、要は現代人のあなたはリッチすぎるという訳、せっかく
飛騨鰤をお召しになるのなら庶民には有難すぎるおさかな飛騨鰤を松本藩のお殿様気分で
いただきましょうよ、うふふ。