中日新聞のネット記事が目に留まりました。
広い校区探検だ! 高山・山王小児童が地域散策、2007年6月13日。
内容は推して知るべし、広い校区を皆が手分けをして歩いて見聞録を
作成したとの事。
ついでの情報が、学区? 校区? 校下?という
NHK放送文化研究所の記事、校下は北海道の一部、北陸の方言であると。
方言好きの佐七にはたまらないこの話題ですが、
同語をキーワードに検索しますとやはり、あれこれ情報が
得られます。
天下のNHK記事にしては書き足らないと
思うのですが、あるいは・・・飛騨では既に死語という事なのですね。青息吐息です。
ついでですから佐七節と参りましょう。
県下の学校、高山市制下での教育、城下の小学校、等々
の日本語があるのに、なぜ校下はかつての飛騨方言であって、
しかも死語になってしまったのでしょう。
さて、校下、と言う言葉は、学校が地域の中心にそびえ立っていて、
人家がその下にあるという発想に他なりません。
県下、市制下、城下にして然り。
校下にあるものは、役場は別格として、農協、郵便局、寺社、民家。
お坊様も神様も校長先生にたじたじです。
かつての飛騨の村々では、役場と学校、が村の中心にそびえ、
そして村境といえば人里ではなく狸だけが住む厳しい渓谷、峠など自然地形です。
つまりは隣の校下との境など一目瞭然というわけ。ははは。
つまりは、何処までが校区かなどという言葉は学校がひしめき合う地域の町内の線引きの発想であり、
校下、という語は、
かつての飛騨では小学校の分布がいかに疎であったか、
という事を示しているのです。つまり、児童は五キロ、十キロの山道の通学路を
歩いた。北海道では十キロ以上の原野を歩いたのでしょうねえ。
君たち、ホントに偉いぞ。
戦後は過疎化の波、多くの分校が廃校となり、ますます
学校は疎となった飛騨地方にも関わらず、
道路は整備され、子供等はバスで通学するようになり、
マスコミの影響、方言バッシング、等々にあえなく死滅した飛騨の言葉・校下。
でも旧高山市街のように小学校が昔からひしめき合っていた所では、
校区という、つまり線引きの言葉が昔から使われていたのでしょうか。
佐七ゃあざいごさやもんで、これがわからんのやさあ。
誰か教えてくりょよ。
ざいごさ=在郷さん、田舎者をさげすんで言う事。
|