飛騨方言で、たわけ者、うつけ者、ないし、そのような行いそのもの、を指します。
原語は勿論、田分け、で、分家の形で財産分与を行うと、次の代は共倒れのように経済的に疲弊するので、
大事な財産たる田は財産分与してはいけない、田を分与する事はおろかな事だ、男子直系の長男が田畑を
すべて相続し、強い経済力を維持しなくてはいけない、という戒めから出た言葉です。
たわけが、飛騨地方では音便化し、たあけ、となった次第ですが、他に三河地方などに、たあけ、が見られます。
飛騨方言ではいろいろと言葉が派生し、たあけな者をたあけ者、といい、形容詞化して、たあけらしい、と言います。
この連体形は、たあけらしな、とはならず、専ら、たあけた、が用いられます。
また、たあけらしい、は、ウ音便化し、馬鹿馬鹿しくて、という意味で、たあけらしょうて、と言います。
たあけた、については、馬鹿なような、という意味で、たあけたような、という言い回しがあり、
実際には、たあけたような、が更に語変化し、たあけたいな(=まるで馬鹿なような)、という言葉が使われます。
たあけた、たあけたいな、たあけらしょうて、などは左現といえましょう。
また語気を強めるために繰り返しがよく用いられ、
たあけって、たあけって、話にならんさ (=馬鹿な事このうえなし、話になりませんね)
などと用います。
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