動詞終止形及び形容詞終止形に接続して確認の意味で用いる言葉・ろ、
ですが、飛騨人以外の方の耳にはかなり奇異に聞こえてしまうようですね。
例文と参りましょう。
佐七は多分、忘年会にいくろ。
=佐七は多分、忘年会にいくでしょう。
どうや、おいしいろ。
=どうですか、おいしいでしょう。
早い話が、〜だろう、が詰まった言葉という事のようですね。
ただし、指定の助動詞・だ・じゃ、は日本の西は、じゃ、東は、だ、
という東西対立があります。
上記の例文ですが、江戸時代あたりには飛騨方言では、
忘年会にいくじゃろう、おいしいじゃろう、と言っていた
可能性が高いでしょう。
つまりは語の変化は、
じゃろう>やろう>やろ>ろ
それでも、形容動詞はどうでしょうか。
この飛騨方言文末詞ですが、
そりゃ大変やろ、とは言いますが、そりゃ大変ろ、とは
決して言いません。
これも考えてみれば当たり前の事、体言に指定の助動詞・じゃ(や)、を体言に接続してこそ初めて形容動詞になります。
形容動詞から、じゃ(や)、を抜いてしまったら最早、それは
体言です。つまりは、この文末詞は例えその意味が元々は、だろう、の意味では
あっても直接的に体言に接続は出来ません。
以上の議論から、
- 文末詞・ろ、は、じゃろう、が語源である事は明らかです。
- 大変じゃろ、とは言っても、大変ろ、とは言わない事も
説明が可能です。
- また、やろ、は、ろ、になりやすい。つまりは、や、
の音は脱落しやすい事も判ってしまいました。
- さらには、飛騨方言において、じゃ>や、の
音韻変化が生じたのは近代でしょう。
明治生まれの筆者の四人の祖父母は皆、じゃ、
を用いていました。戦後生まれの筆者の同級生で、じゃ、
を使うものは一人もいません。つまりはこの文末詞の
誕生した年代も推して知るべし。
つまりは佐七にはこんな面白いテーマは他にないので、やはり当分は飛騨方言の
研究はやめられません。
おまけ
だろう、の語源ですが、推量の助動詞の終止形「う」が指定の助動詞・だ、の未然形「だろ」に接続した言葉、つまりは複合助動詞という事のようです。