大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
カワラナデシコの飛騨方言 |
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私:カワラナデシコ河原撫子・はナデシコ科の草本。単にナデシコともいう。やまとなでしこ、とも、瞿麦(くばく)とも呼ばれる。なでしこ、は万葉集にある。つまり和語。五月に詠まれたものがあるが、後世には秋の七草になっているね。語源については書かずもがな、なでる撫、つまりは、そうっと愛おしむ事から来ている名前だ。飛騨方言では、しゃぼんばな。 君:やまとなでしこ、と言えば、花の名前というよりは日本人女性の美称を示すわね。 私:その通り。からなでし唐撫子、即ち、せきちく石竹、に対して大和撫子だ。せきちく、は中国原産。枕草子に、唐撫子があるから、平安時代には日本に輸入されていたという事だね。つまりは平安時代の美学としては純粋に日本的な女性を大和撫子といい、すこしエキゾチックな女性の事を唐撫子といっていた。 君:ほほほ、それはよいとして、飛騨方言の、しゃぼんばな、についてはどういう事なのかしら。 私:花を水につけて揉むと泡立つので飛騨方言ではそのように表現する。(かわら)なでしこ、の方言量は二十程度で極端に少ない。そして、しゃぼんばな、は飛騨だけ。つまりは俚言。 君:あら、それは意外ね。 私:そう、意外。君とは意外と気が合うね。実は飛騨のナデシコは野生のものを意味し、これだけが揉むと泡立つようなんだが。蛇足ながら、しゃぼん、の方言名の草花は、小学館日本方言大辞典に9種類、紹介されていた。 君:それも書き出せば切りがないのね。 私:ああ、切りがない。蛇足だが、植物一家言/草と木は天の恵み(単行本)・牧野富太郎(著)を知ってるかい, 君:いいえ、知らないわ。 私:彼はその著書に、中国の古書図譜から明らかだが、瞿麦は、せきちく(石竹)そのものであって、撫子ではない、と喝破している。 君:あなたはどうなの。 私:わかりません、僕には。 君:ちょっとした細かい差は気にしません、という気持ちね。でも言葉の意味には拘るのでしょ。瞿麦ってなんなの? 私:く瞿、は鷹などがきょろきょろと両眼視する事を意味するんだ。つまりは、みる・ぎょっとする・にらむ、などの意味だ。花のハッとする美しさを表しているのでしょう。 君:ほほほ、なるほどね。 私:ところで、今日は孫を保育園に迎えに行く日だったが、みる・ぎょっとする・にらむ、をしてしまった。 君:どういう事。 私:見ず知らずのお嬢ちゃんで、多分、年少さんだろう、その子があなたにそっくりでビックリしてしまったんだよ。 君:あら、私、おばあちゃんよ。 私:ははは、人間には顔認証能力というものがある。娘が婆さんになっても本人と分るし、また現在は婆さんの君でも幼いころはこんなお顔だったのだろう、くらいは自動的に認識できる。 君:ほほほ、それで、どんな点が似ているというのかしら。 私:まずは基本的には顔の骨格。それに目元、口元、笑った表情、等々。瞬時に納得できるレベル。ああ、君にもこんな幼い時代があったのかな、と不思議な感動を覚えた。 君:私の事なんかいいから、忘れようにも忘れられないお顔の女性が他にいらっしゃるでしょうよ。 私:そうだね。何十年たっても青年時代の記憶は褪せて消える事は無い。 君:あなたの心の中で決して歳を取らない大和撫子様なのね。ほほほ |
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