大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法

飛騨方言の動詞命令形(1)

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私:ちょいと飛騨方言の動詞命令形に関して語らせていただこう。
君:えっ、まさか、突然にふっと出てきた考えをいきなりネット発信は止めたほうがいいわよ。
私:まあ、そう言いなさるな。どうせ人畜無害の話なんだし。そりゃあ、後からよくよく考えなおしてみると間違っている事に気づくかもしれないとか、専門書を読んで改めて考えなおさせられるかもしれないとか、そういう事が無いとは言い切れないが、僕の基本スタイルは随筆だ。書きながら考える。ひらめきの美学。
君:社会的インパクトもないしね。どうぞ、お好きなように。
私:ありがとう。では早速に。さて、文語の四段が消滅し口語の五段になったからといって、江戸時代あたりに未然形が母音交替しただけであって(例 かかう・かこう)、命令形は文語も口語も同じでエ段だよね。
君:そんな事、小学生でも知ってるわよ。というか、あなた、三歳になるお孫さんに格助詞やら、五段動詞の命令形(エ段)を教えているのでしょ。アンパンマンよ、どこそこに行け・書け・話せ・言え、とか。
私:未然形も教えているぜ。ひげ爺は行かない、とか。でも、今日は命令形に限ろう。飛騨方言では四段も五段も無いな。同じだね。
君:じゃあ、次は上一段ね。
私:そうだね。上一と上二の違いは終止形・連体形・已然形だから、命令形に関しては上一段と上二段の共通問題と言ってもいい。ここで大問題が発生する。
君:ほほほ、江戸言葉の問題ね。
私:その通り。飛騨方言は伝統的に奈良・平安あたりの文法で行け行け、で現在に至っていて、命令形では江戸言葉を絶対に使わない。
君:皆様に判り易いように具体例がいいわよ。
私:そうだね。例えば「着る」の命令形は飛騨方言では「着よ・着れ」であり、江戸言葉「着ろ」はアウト。「ろ」は完全にバツ、一文字でアウトだ。
君:でも、ちょっと待ってよ。文語だって「着よ」はマル、「着れ」は明らかにアウトだから、飛騨方言の口語文法上一段動詞の命令形って随分とおかしな文法よね。文語文法にも口語文法にも共にそぐわないとなると、あまり、おらが飛騨方言に誇りを持てなくなるわね。東京の方々に「君たちは日本語を話さないのか?」なんて思われそうで。
私:ははは、ご心配なく。飛騨方言はキチンと文語文法に従っている。卑下する必要なんかないんだよ。
君:えっ、どうして。・・わかった!!助動詞ね。
私:そう、その通り。つい先ほどだが、僕は「着れ」は実は動カ上一ではなく若しかして四段動詞「着」の未然形+完了・過去の助動詞「り」の命令形である事に気づいてしまった。つまりは「着れ」は「着なさい」という単なる意味ではなく「もたもたしていないでさっさと着なさい、そでもキチンと伸ばしなさい、そうする事によって着るという動作をキチンと完了しなさい」という、実に奥深い意味があったのだ。がはは
君:なるほど、文語文法にピタリと一致するわね。とうとう狂った佐七。可哀そうに。私なら動カ上一「き着」連用形+命令「たれ」、つまり「着たれ」の短呼化で「着れ」かもと思っちゃうけど。
私:いやあ、昨晩は娘が孫を連れて遊びに来てね、旦那さんは当直のお仕事らしい。利かぬ気の孫と風呂に入り、出たら出たで、寝間着を着せたり、ミルクを飲ませたり、大変だったよ。
君:あなた、具体例過ぎて随筆の雰囲気がたっぷり出すぎているわよ。
私:だから言っただろ。僕は論文を書く事よりも随筆を書く事が好きだって。
君:ところで、残りの動詞、つまりは下一段、下二段、カ変、サ変、すべて同じ論法で説明できるわね。
私:その通り。ただし、下二段はごっそりと四段になっちゃったけどね。結論だが、命令形に関しては飛騨方言では江戸言葉は絶対に使わず、完了・過去の助動詞「り」の命令形を使用するんだ。先ほどだが、飛騨の人達がこのように命令形を無意識に使っている事に僕は気づいてしまったのだ。
君:それは発見だわよ。
私:ありがとう、いつまでも君と国語の話をしていたい。
君:でも、あなたのアンビリーバボーな洞察「きる着」が四段、で頭がすっきりしたから、では、おしまい。
私:おいおい、待ってくれ。話はまだ半分だ。
君:えっ、どういう事?
私:だから言っただろ。飛騨方言は奈良・平安の命令形だと。つまりは飛騨方言の命令形は室町時代の命令形でもないし、江戸時代の命令形でもない。
君:・・わかった!!助動詞の歴史ね。
私:その通り。完了・過去の助動詞は、平安時代まで「り」だが中央ではやがて消滅、室町から江戸にかけては、うじゃうじゃと助動詞が出てきたが、それでも完了・過去の助動詞は「たり」の一個だけだ。然も、そんな「たり」を飛騨の人々は採用しなかった。二つの理由のために。
君:ほほほ、重要な点よね。完了・過去の助動詞「り」の先行動詞は未然形、それに対し室町の助動詞「たり」の先行動詞は連用形。つまりは「り」と「たり」でたった一文字の違いでも、接続が異なれば使いようが無いわね。そしてもっと大切な理由は室町の完了「たり」にはそもそも命令形が無い事。ところで平安の指定の助動詞「たり」には命令形があるけど、こちらの先行品詞は体言ないし連体形なので、平安「たり」も接続の点においてアウトよね。
私:ははは、ほんと、君とは気が合うな。接続が異なれば使いようが無いし、命令形が無ければ使いようが無い。今日の結論だね。逆に言えば、飛騨人は平安時代からかたくなに未然形の接続を守り、後世に現れた助動詞には目もくれなかった。未然、つまりは未だ然らざる動詞を完了の助動詞「り」で一発で命令形に導く瞬殺技だ。これを平安文学の生きた化石、飛騨方言文法の美学といわずして何という。言い換えれば、ふらふらと命令形を変えていった東京の人々。東京語なんかに美学は無いぜ。
君:あ/が/せ/の/おもひ/あそび/たまふ/こと/然る/やうなら/まほしから/さする/ごとく/なり/ね。ほら、東京の人達もびっくり、正調飛騨方言・雅(みやび)な平安の助動詞祭りよ。締めは命令形でね。ほほほ

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