大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法 |
仮定形 |
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私:俗語表現だが「泣きゃあいいってもんじゃない」などという表現がある。 君:俗語は俗語であって、飛騨方言じゃないわよ。俗語は共通語。俗語は標準語ではないけれど。 私:それは正確な表現とは言い難いね。飛騨方言でも俗語は多用される。つまり集合論的には俗語は、共通語語彙と飛騨方言語彙、二つの集合における和集合。 君:なるほど。ではどうぞ。 私:標準語・共通語・飛騨方言、この三者の和集合は「泣けば」。つまりは集合論的には「泣けば」と「泣きゃあ」は独立。つまりは日本語の仮定形には少なくとも二通りの言い方がある。これに気づいてほしかったんだよ。 君:なるほどね。つまりは「泣きゃあ」はカ行四段「泣く」の連用形+助動詞、仮定形表現なのに連用形を用いていますよ、という事を言いたいのね。 私:なんだ、わかっているじゃないか。今日は午後に一時間、散歩が出来た。当然ながら飛騨方言・日本語の事を考えながら野山を歩く。昨日は命令形を考えたので、今日の思索は仮定形にしよう、と思ったんだよ。 君:簡単にお願いね。 私:うん。文語文法は省略して、口語文法だけで行こう。五段動詞は「や」が連用形に接続して拗音化する。行きゃ、泳ぎゃ、・・蹴りゃ。上一段動詞は「りゃ」が連用形に接続する。着りゃ、似りゃ・・懲りりゃ。下一段動詞は同様に「りゃ」が連用形に接続する。得りゃ、受けりゃ・・晴れりゃ。カ変も連用形+「りゃ」で、くりゃ。サ変は「や」が終止形に接続して拗音化して「すりゃ」になる。 君:ほほほ、お孫さんが覚え始めた日本語かしら。 私:ご想像にお任せするが、たかが仮定法表現だが、結構、複雑な事をやっているね。外国人の理解は至難だろう。という事で手元の専門書、文法辞典だが、実は記載が皆無。俗語がご専門の文法学者にお聞きしたい気持ちだ。でも以上、長々と書いたが、要はたったひとつ、ひとつのルールがある事に気づかされる。 君:ほほほ。どういう事かしら。 私:実に簡単。要は連用形+「や」の拗音。ただし連用形に「り」が無い場合は連用形+「りや」の拗音。要するにさらに共通項としては「や」が助動詞である事がわかる。 君:なるほどね。 私:こんな見方もできる。「る」で終わる動詞、つまりは上一・下一・カ変・サ変は終止形+「や」が母音交替・拗音化して「るや」が「りゃ」になる。五段動詞とて同じ。「る」で終ろうが終わるまいが終止形+「や」の母音交替・拗音化。 君:あら、一番に簡単な説明は「や」が終止形に接続してこれが母音交替・拗音化という事じゃないの。 私:なんだ、そういう事か。それじゃあ、話は更に簡単というか、実に明瞭というか、「や」の正体は終助詞「や」で決まりだね。 君:ほほほ、おわかりかしら。話を簡単に文語文法は省いて、というのがそもそも間違いの発想よ。 私:確かにそうだ。俗語とて現代語として突然に出現したわけではない。文語文法から派生したものだ。原点に帰れ。つまりは国語・方言を考えるには、特に語源・品詞分解に拘る場合はそうだ。 君:俗語という言い方自体が間違いね。 私:うん、そう思う。「泣きゃあ」の語源は「泣くや」だ。俗語ではなく要は古語的表現というわけだ。 君:もうひとつ大切な事があるわよ。 私:えっ、どういう事? 君:例文。鳥のまさに死なむとするや その声や悲し 私:うん、わかったぞ。中世以降における動詞活用をこと問はば、終止形と連体形の同一化(というか終止形の消滅)及び近世における已然形の消滅が仮定形にとってかわられた二段ステップの文法学の大事件だね。 君:「死なむとするや」、死のうとしているのだが、の意味が、若し死ねば、になっちゃったのよ。 私:共通語なのか、俗語なのか、あるいは文語的表現なのか、これはもう本当に恣意的だね。 君:そうね。 私:これが今夜は終わりにしたいが、もう一言。 君:何? 私:実は飛騨方言では「や」が上一・下一の語幹に接続しても仮定形で意味が通る。例えば、着やあ、似やあ、・・得やあ、受けやあ、・・・この場合は拗音化はしないどころか終拍「あ」にアクセント核がある。 君:ほほほ、その場合は、つまりは全種類の動詞が連用形に接続で説明可能、という事ね。 私:そうだね。何気なく使っている飛騨方言、ただしかなり複雑な言語処理を行っている事は間違いない。たかが方言、されど方言。仮定法表現は連用形なのか?、終止形なのか? 君:左七のまさに悩まむとするや その意気込みや良し。ほほほ |
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