にぎわう、という意味で飛騨方言では、にわう、あるいは、にわる、
というのですが、
早い話がちょいと訛っているだけの事ですね。
つまらないといえばつまらない、
でも何か理屈があるかも、と思いませんか。
所詮はちょいと訛っただけだから飛騨方言なんか
考えたくないという方はハイさようなら。
にぎわう・ハ五段、にわう・ハ行四段、
にわる・ラ行四段、である事は書かずもがな。
つまりは、にぎわう>にわう>にわる、と変化して
来たのであろうと言う事が容易に推察されます。
さて、にぎわう>にわう、の語変化があったので
あろうという事についても書くまでもないですね。
理由は言いにくいから。
そして一語脱落しても意味が十分通ずるから。
例えば、役人の子はニギニギをよく覚え。
江戸時代の川柳を悲し飛騨の農民が知る由もなし。口ずさむ事もなし。
つまりはボイストレーニングがなかったのですよ。
江戸の庶民はよく知っていたという事でしょうよ、ふふふ。
江戸の庶民はしっかりとボイストレーニングした。
そして現代の共通語・にぎわう、となる。
筆者が、にわう>にわる、と変化したのであろうと
直感する理由を述べましょう。
未然形の活用を考えてみてね。
にわわない・にわらない。
ついで連用形です。にわいて・にわりて。
ところが実は共に促音便となり、共に、にわって、ですね。
お察しの良い方には書くまでも無い事ですが、
つまりは、にわう・ハ行四段、の動詞では未然形の活用が
とにもかくにもしゃべりにくいと言う事で嫌われたのでしょうね。
つまりは、にわわない、という言い回しはすたれ、
にわっとらん、としか言わないようになったのでしょう。
ここが本稿の核心です。つまりは最早、未然形の活用は存在せず連用形が、 にわって、
である動詞がいつのまにか、にわる・ラ行四段、になりかわる
事は必然的であったと佐七は考えるのです。
国民の皆様へ、にぎわう・にわる、どちらが
いいやすいでしょうか。
たとえば未然形は、にぎわわない・にわらない。
しかも意味は全く同じなんやさ。
ねえ、飛騨方言って共通語に比し明らかに言い易いでしょう、ふふふ。
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