大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
おとましい |
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ここの数日ですが、飛騨方言の語彙・語源について少々はまっています。方言学といっても多岐に渡りますが、用言の活用やら方言文末詞の解釈、いわゆる方言の文法の事を連日、書いていた事がありました。これに飽きると続いてはアクセント学にのめり込むアマチュアが多いのではないでしょうか。語彙は方言学の基本中の基本なので、私にとっては最近はいわば原点回帰です。つまりは私が聞いた事のない語彙、あるいは文献に現れる死語、これらについてあれこれ考えるのが、また楽しいのです。私事ながら高校時代の私は現代文より、古典・漢文の授業のほうが断然、面白かったのでした。このサイトで繰り返し述べている事ですが、方言学は古典そのものです。 前置きはさておき、飛騨方言の「おとましい」【形シク】ですが、土田吉左衛門「飛騨のことば」には・・★事の意外なのに驚きあきれる。(いくらなんでも・・こっちゃ★勿体ない。罰当たりである。(金を湯水のようにつかうしこ(=様子)じゃが・・こっちゃ)★惜しい(金を捨ててまって・・こっちゃ)・・との記載がありました。飛騨方言の同意語には「おつとましや」の言い方もあるそうで。 いゃーあ、参ってしまいますね。大きく分けで三つもの意味を持っている形容詞ですか。専ら悪い意味で用いられるのであり、良い意味では決して用いられない、という共通項はあるのでしょうが、それでも語源となればひとつの古語なのでしょう。思い浮かべられる形容詞といえば、「うとまし」「おずし」「おずまし」「おぞまし」「おそし」「おぞし」などが立ちどころに浮かんできますので、反って青息吐息です。これらの古語形容詞も専ら悪い意味で用いられるという共通項があるので、飛騨方言「おとましい」の語源の候補の資格は十分にありそうです。 岩波古語ですが「うとまし」は、嫌な相手に対して無関係だという気持ちを示したい意、だそうで。「事の意外なのに驚きあきれる」「勿体ない。罰当たりである」の意味でしょう。そして「おとまし」は、うとましの訛りですが、好ましくない・いとわしい、の意味で、嫌な相手ではあるものの無関係な訳ではないという事で使われるのかもしれませんね。これは「惜しい」という意味に通じます。失ったものを取り返せたらどんなに幸せだろう、という意味で本質的には失ったものに対する執着を表す言葉でしょう。失恋して、逃げた魚は大きかった、と嘆く気持ちに通ずる言葉かと思います。つまりは(嫌なものがあるので残念)と(愛しいものが無いので残念)は全く正反対の言葉ですが、「うとまし」「おとまし」などの古語辞典の記載からは残念ながらその意味の違いは見えてきません。 どちらにせよ、飛騨方言「おとましい」は(嫌なものがある)か(愛しいものが無い)か、いずれにせよ、大変に残念である、という気持ちを表す言葉のようですね。令和の時代でも結構、使われているのでしょうかねぇ。 まとめですが、少しは学術語を交えて書くとかっこいい文章になるのでしょうか。方言学では「感情表現」という分野に属していて、喜怒哀楽の表現はどのような言葉が用いられるかと研究する分野ですが、基本中の基本の知識としては「喜楽」を示す言葉と「怒哀」を示す言葉はどちらかの方言量が多いでしょうか。答えは「怒哀」です。「喜楽」の言葉より圧倒的に多いのです。小学館・日本方言辞典には「汚い」を示す言葉が何ページも紹介されていますし、「惜しい」も沢山の表現があります。こうなってきますともう、方言は汚い言葉だから明治政府の方言撲滅政策「方言札」の罰だ、という事になるのでしょうかね。先生やめてください、かんにんして、おとましいこっちゃ。ぶふっ |
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