大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
「さ」という飛騨方言終助詞の正体 |
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私:私は何にでも興味を示す性格だと思っているが、飽きっぽい性格でもあって困っている。ただし、次から次へと発見があると、これが結構どころか、とんでもなく楽しくて、つまりは飛騨方言についてあれこれ調べはじめて15年の月日が流れてしまった。 君:回りくどい挨拶はやめて本題にしたら。あなたの大好きなのが語源探しで、飛騨方言終助詞「さ」に相当する古語の終助詞を発見した、というお話なのよね。 私:その通りだ。よくわかったね。 君:まだ丸わかりな事があるわ。あなたは昨日、こんな記事を書いたのよ。語尾に「さ〜」が多すぎる青森の女子大生。そこで飛騨方言には文末詞「さ」がある事をお書きになったまでは良いとして、はて「さ」の語源は何なんだろう、などと考え始めて、つまりは丸一日もそんな事ばかり考えてきたのよね。 私:いやあ、素晴らしい洞察力。正にその通り。診察の合間も、昼食の時も、昼食後は近くの公園へ一時間ばかり散歩するのが日課だが、そんな事を考え続けていた。 君:じゃあ早速に答えを教えてね。といっても古語の終助詞には数に限りがあるから、時間さえあれば誰もが導き出せるのよね。 私:ははは、お言葉だな。まあ、いいや、いつものお言葉なんか。ひとつ質問だ。古語の終助詞の数は幾つだい。 君:失礼ね。それこそお言葉よ。ざっと70だわ。 私:おっ、正解だ。三省堂古語辞典には巻末に一覧表があって大助かりだった。正確には75個。他の辞典となるとアウトだね。細大漏らさず記載されている辞書じゃないと正解は得られない。念願かなって手に入れた角川古語大辞典全五巻はあらゆる古語辞典の中でも最大級の、古今雅俗にわたる約10万の豊富な語彙を収録している。とは言っても巻末資料は一切、無い。三省堂古語辞典に感謝、というか故・金田一春彦先生に感謝している。私は何時まで経っても先生には頭が上がらない。 君:75個の中から一個を発見したのね。 私:答えは終助詞「よ」。意味は「詠嘆」。先行接続は用言終止形・体言が主。文例は奈良から江戸。記歌謡、万葉集、新古今、他。 君:ぶっきらぼうね。文例があるといいわよ。 私:では。「いいわよ」これこそ文例だ。実は、つまりは現代語に生きている。 君:なるほどね。つまりは意味「詠嘆」ではあるものの、実は更に意味が限定されていて、女性に限定の言い方で、自分の判断を示し、相手に同意を求めたり念を押したりする意を表すという機能があるのよね。 私:その通り。「よ」は実は、飛騨方言でも、そのまま活躍しているし、「よ」を「さ」に変えても飛騨方言になるんだ。実に単純なロジックだった。つまりは「さ」の語源は「よ」であり、「よ」から「さ」への音韻変化も突然に生じたに違いないと考えざるを得ない。 君:どんどん、文例を出してみてね。 私:共通語「私は女だわよ」、飛騨方言「私は女やよ。」「私は女やさ。」 君:但し飛騨方言の「よ」と「さ」は直接、体言には接続できないわね。 私:その通り。共通語で「私は女よ」は有りだが、飛騨方言「私は女よ。」「私は女さ。」はアウト。 君:「よ」は元来が間投助詞で詠嘆の意味なのよね。 私:その通り。更に深堀りすると「よ」は「や」から来たと言われている。「初春や〜」などの言い方。意味は「〜ものだなあ」「〜であることよ」。この柔和な言い方が女性らしい、しおらしい言い方であるが故に現代語の「私は女よ」になって生きている。 君:しかも、そもそもが間投助詞であったものが文末で用いられる事か多くなり、遂には間投助詞「よ」から袂を分かつ形で女性限定の詠嘆の終助詞「よ」が誕生したという事なのよね。 私:その通りだ。何も付け加える事は無い。飛騨方言においては男性は決して終助詞「よ」は使わず、「さ」を用いる。「俺は男やさ。」とは言うが「おれは男やよ。」とは決して言わない。 君:その辺の歴史的変遷はどうなってそうなったのかしらね。 私:あくまでも推論だが、古い時代には飛騨方言では女性のみが終助詞「よ」を用いていたのだろう。そこで、それにつられて男性は終助詞「さ」を考えだして使うようになったという事なんだよ。つまりは「よ」が古い言い方で「さ」が新しい言い方という意味だ。 君:なるほど、納得ね。でも今では飛騨の女性は「よ」も「さ」も使うわよ。「私は女やよ。」「私は女やさ。」どちらもありだわ。終助詞「さ」は男女ともに使うわよ。 私:その理屈はこうだ。「さ」は本来は男が使っていた。ところが女性が自分の目下、つまりは母親が子供に対して男言葉「さ」を用いるようになり、そうこうしているうちに「さ」も女性らしい、柔和な響きに感ずる女性が増えて、やがて若い女性が男性に対しても「さ」を用いるようになったのだろう。例えば「あれ、こーわいさ(あらら、恐縮しますわ)。」「あれ、はずかしいさ、おりの嫁になれなんて。」「そうなんやさ、私、佐七さんを好きになってまって。」等々。 君:この文例で「さ」を先祖返りさせて「よ」に変換できるかしら。 私:ははは、それが実は不可。常に進化する飛騨方言、「よ」ではなく、「えな」という新しい文末詞を形容詞終止形に接続するようになった。つまりは「あれ、こーわいえな。」「あれ、はずかしいえな、おりの嫁になれなんて。」「そうなんやえな、私も佐七さんを好きになってまって。」なら飛騨方言のセンスにあっている。 君:なんだか敬意逓減の法則みたいね。 私:その通り。女性らしさ逓減の法則だ。現代語としては「さ」よりも、「よ」よりも、なによりも「えな」が女性らしさを表現する飛騨方言の文末詞になっているという事だな。 君:では男性の文末詞も進化しているのね。 私:その通り。「さ」では男らしさが足りないという事で「ぞ」に音韻変化した。突然の現象だろう。「佐七は男やさ。」よりも「佐七は男やぞ。」のほうが断然、マッチョな感じがする。 君:詠嘆の終助詞「よ」は飛騨方言においては「私は女やえな」「俺は男やぞ」に分化したのね。 私:その通り。それともう一点、実はこちらの疑問のほうが詠嘆の終助詞「よ」を思いついた直接のきっかけだが。「これは石やさ。」の問いかけに対して「へえ、それは石やさ。」には決してならない事。どうしてなんだろう、と昨日から考え続けていた。共通語でも同じ事が言える。「これは石なのよ。」の問いかけに対して「へえ、それは石なのよ。」には決してならない。 君:なるほどね。終助詞「よ」の機能は詠嘆というよりは自分の判断を示し、相手に同意を求めたり念を押したりする意を表すという機能だからオウム返しにはできないわね。聞き手は「その通りだ。納得します。」という意味を込めて「へえ、それは石なのね。」で答えるのが日本語。 私:正にその通り。詠嘆の終助詞「よ」に対しては確認の終助詞「ね」で応答するという、一対の会話文での係り結びの法則だ。飛騨方言も同じだ。「ね」ではなく「な」で答えるのが飛騨方言。「あれ、こーわいさ。はずかしいさ。そうなんやさ、私も佐七さんを好きになってまったんやさ。」に対しては「えっ、こわいんやな(畏れ多いですって)?はずかしいんやな?そうなんやな?あんたもわしを好きになってまったんやな?」となる。 君:文例としてはどうかと思うわ。 私:失礼しました。古語の終助詞「よ」だが、上記の「私は女やよ」は形容動詞終止形のお話として敷衍できる。そして「私は女だわよ」の「わ」は終助詞「わ」に接続する。「俺は男だ。」に対して「私は女だわ。」で女房詞(にょうぼうことば)になり、「私は女だわよ。」で更に念を押したり、或いは詠嘆の意味が加わる。形容詞終止形と肝心の動詞終止形に直接続させたらどうなるからについては、まだ一切、議論していない。男は「これはうまいよ。」というが、女は「私は美しいよ。」とは言わない。女は「私は美しいわよ。」と言う。男言葉で「駅はすぐそこだから歩くよ。」は呼びかけ・念押し・強調の意味の終助詞になる。だから、たかが間投助詞「よ」の終助詞化とは別のカテゴリーというわけだね。それに下二段の命令形「燃えよドラゴン」は命令の意味だが、「だがしかし、待てよ。」などという文例は五段動詞にはそもそもが「よ」の活用がないので命令の意味ではありえない、「待てよ」の「よ」は実は命令形ではなく、念押し・強調の意味の間投助詞だろう。これ以上、話し出すと読者の方々がうんざりなさるだけだろう。紙面の事もあり割愛し、別稿にて。 君:簡単に今日のまとめをお願いね。 私:飛騨方言の終助詞「さ」の語源は古語の間投助詞「よ」が文末に使われるようになり終助詞化した結果です。ただし先行接続が形容動詞、助動詞、助詞の場合にのみ当てはまります。動詞と形容詞への直接接続の場合は当てはまりません。 君:もっと簡単にまとめると、「佐七は急に持論を思いつき自己陶酔しています」。ほほほ まとめ 共通語においては詠嘆の終助詞「よ」で終わる主張文に対して納得した場合は納得という意味の終助詞「ね」で答えねばならないという法則があるようですね。飛騨方言では終助詞「さ」と終助詞「な」がこの関係にピタリと一致します。私が飛騨方言終助詞「さ」の語源が古語終助詞(間投助詞)「よ」が語源であると主張する唯一の根拠です。実は大事な根拠がもうひとつあります。「よ」に対して「よ」で答えると日本語の意味をなさないし、「さ」に対して「さ」で答えても飛騨方言として意味をなさないのです。これをかってに「オウム返し禁止の法則」と名付けてみました。今夜も方言の神様と握手が出来ました。イェーイ ref. 小林千草「女ことばはどこへ消えたか?」光文社新書、丹羽一彌「日本語動詞述語の構造」笠間書院、「日本語文法辞典」大修館書店 |
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