大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

よったり(=四人)続

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私:別稿「よったり」に飛騨方言では「ひとり・ふたり」につられて「よったり(=四人)」という言い方がある事を紹介したが、成因の理由は「誤れる回帰」であろうと論述した。
君:あら、続編とは。誤り、つまり民間語源に気付いて、あれこれお調べものをなさったという事かしら。
私:まあね。「誤れる回帰」であろうことくらいは想像に難くない。祖父母だが小学校しか出ていない。小卒がいきなり社会人だ。教養というものがない人達の話す言葉は素朴そのもの、古語辞典は関係ない。
君:上古の基数詞について調査してみたのよね。
私:残念ながら手元の成書に記載がない。思わず突破口、有力なネット情報を得た。横山験也のちょっと一休み
君:なるほどね。日本書紀では数は「ひと・ふた・み・よ・いつ・むゆ・なな・や・ここの・と」、そして人の基数詞接辞は「たり」。
私:その通り。ひとたり、は、ひとり、に転。ふたたり、も、ふたり、に転。みたり、は消滅。よつたり、は全国各地の方言に残るというわけだ。角川古語大辞典にも「たり人」の記載がある。「葦原のしけしき小屋に菅畳いやさや敷きてわがふ多理(たり)寝し」記歌謡19
君:お昼寝かしらね。
私:うーん、どうかな。「わがふ和合」、これってサ変動詞だろうか、ハ行動詞だろうか。要は男女がエッチをする事を意味する。
君:つまり、「ふたり寝し」は「お二人で寝ていらっしゃるわ」。
私:要はそういう事。どのご家庭もそうだと思うが、夫婦で寝ている時間が実は人生のかなりの部分を占めている。
君:「わがふ・たり」が「いちゃつく・二人」という意味ね。おおらかな歌というか、なんというか。恥ずかしいわ。イヤン、馬鹿。
私:人類は進歩していない事がわかるな。つまりは一千年を以上を生きてきた古典文学には人類の普遍のテーマが語られている。エロティシズムは日本神話、古代ギリシャ神話のテーマでもある。
君:ちょっと脱線だわよ。記紀歌謡はとりあえずおいておきましょう。
私:そうだね。横山験也先生のご考察は、ひとたり・ふたたり、の二語はあまりにも使用頻度が多いので三拍に短呼化、つまりはモーラの脱落が生じたのでは、という事だが、これは万人がご納得なさるだろう。
君:そうね。「みたたり」がどうして「さんにん」になっちゃったのかしらね。
私:不明だ。今、わかっている事としては、「みたりのおきな三人翁」古今・雑上、という言葉がある。つまりは平安中期には「みたたり」から「みたり」への音韻変化があった事が判明した。「よつたり四人」は江戸時代までの中央語。特に蹴鞠(けまり)は四人の遊びだそうだが、これを示していたらしい。江戸時代に貴族ではなく上流町人の間で蹴鞠は貴族趣味の遊びとして好まれたそうだ。「よったり」はやがて「よたり」に音韻変化するが、これが明治の国語辞典・言海にも記載がある。現代語としては死語。
君:つまりは飛騨方言「よったり」は民間語源か、あるいは近世語「よつたり」・江戸言葉の伝搬、のいずれかなのね。今日のあなたは手元に辞書があるから、やけに具体的ね。ほほほ
私:ははは、左様でございます。飛騨方言の「よったりは」それでも多分、民間語源・誤れる回帰。つまりは私の江戸時代のご先祖様に貴族趣味の上流町民の蹴鞠四人組を意味する言葉は無縁だったと思う。
君:たかが言葉、されど言葉。ほほほ、大事な事を忘れているわよ。和語「よつたり」、華麗なる日本書紀の世界、古代から飛騨では「よつたり」だった可能性があるのだわ。ふう、つまりは古代語ロマンス。

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