大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
くすがる(=刺さる)・くすげる(=刺す)の語史バトル |
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数日前ですが筆者は、そういえば共通語「刺さる」の事を飛騨方言で「くすがる」と言うんだったな、と思い出して、語源が気になりだしました。十年以上も飛騨方言の事をあれこれ考えていて、大方の飛騨方言については語源を当てつくしていたと思っていたので、今日も迷わずこの課題にのめりこんでしまいました。賢明な読者の皆様にはお書きするまでも無い事ですが、筆者が飛騨方言以外の事を書き出す場合、それは飛騨方言についてはネタ切れ状態である事を意味します。久しぶりに相手にとって不足は無い「くすがる」という言葉を思い出して、今日もウキウキと調べものをしています。 彼は別稿に、音韻学的に考えて「くすがる」の語源は「くつがへる」であろう、とお書きしました。ただし古語「くつがへる」の意味はひっくりかえる・倒れる、ですから現代口語「くつがえる」と意味は、ほとんど、というか全く変わりません。くつがえってしまった長年の学会通説、よくある話です。40ほど前、彼の医学部学生時代の事ですが、当時は日本人に多かった胃癌の原因について食塩過剰摂取説がありました。実はその後、胃内にピロリ菌が発見され、同菌による慢性炎症が萎縮性胃炎を起こしやがて胃癌になる事が解明され、ピロリ菌を発見したお医者様はノーベル医学生理学賞を受賞なさいました。今やピロリ菌感染の簡便な診断法、そして治療法も確立し、日本人の胃癌は激減しています。イェーイ 話が戻って、ドヤ顔佐七の「くつがへる」語源説がいつ覆ってもおかしくはありませんが、現在のところでは、このあたりまで考えています、という事を皆様にお伝えしましょう。手元の古語辞典すべてに当たって「くつがへる覆」がどの程度ふるい言葉なのか、彼はまずは年代測定してみました。孝徳紀の記載が最も古いのです。これは日本書紀の部分で孝徳天皇紀の略称です。つまりは720年。奈良時代。つまりは和語。意味は勿論、ひっくりかえる。現代口語と変わりません。より具体的には、上下の位置関係が正反対になる事。日本書紀の動詞という事は日本で最古の動詞という事です。つまりは書かずもがな、「くつがへる」の言葉は奈良時代以降はあれこれ、意味が加わります。逆になる事全般、或いは既成のものが否定されて根本から変わる事、例えば政権転覆、胃癌発生説が覆された事、等ですね。これを言語学における「一方向仮説」と言います。諸言語において具体語・個別語・自立語は抽象語・一般語・拘束形態素に発展するという仮説です。さて飛騨方言「くすがる」ですが、意味としては何か物が刺さっている事の意味以外はありません。例えば「とげが皮膚にくすがる・釘が柱にくすがる」、つまりは「ひっくりかえる」という意味ではありませんが、具体語である事は間違いありません。「政権がくすがる」「学説がくすがる」とは言いません。 でも、問題は全国の方言「くすがる」の語源が「くつがへる(ひっくりかえる)」であると仮定して、ではどのようにして意味が変化してしまったのか、合理的な説明が必要です。筆者が考えるに、トゲがひっくりかえるとは、皮膚の方向へ向いていなければ刺さる事もないものの、ひっくりかえって皮膚の方向へ向いてしまえば刺さってしまいます。釘にして然り、本来の方向と逆になれば、つまりは「ひっくりかえる」から「自然には刺さる事の無いものが刺さる方向を向く」の意味に転じ、やがて「物が刺さる」という意味に転じたのかな、という事なのでしょう。話は前後しますが記紀の時代は漢字「覆」の時代、そして助動詞「ゆ・らゆ」の時代、平安に至って受け身「る・らる」と使役「す・さす」に分化の時代となり、「覆る・覆す」となったわけですから、孝徳紀「その甑、物に触れて覆る」は平安文法から見た奈良時代の文章につき、実際のところ、奈良時代に「覆」は何と呼ばれていたのでしょう。同じ語根で語尾により自他対を区別する現象、つまり「成る・成す」「余る・余す」等々のような形態的対応は平安文法において急加速していきます。従って「くつがへる」の誕生は平安、その音韻変化たる「くすがる」の誕生は平安以降と考えるのが無難でしょう。つまりは古典文法的には平安以降に飛騨方言「くすがる」の意味変化も具体語でストップ、つまりは抽象語に発展せず現在に至っているのかな、というのが筆者の主張です。 せっかくですから飛騨方言「くすがる」の同意語・自サ四「さす刺」についても考え見ましょう。用例は万葉集「わたつみの豊旗雲に入日さし・・」懐かしいですね。四段・下二で同じ音韻の動詞が、例えば「入る・切る・焼く・垂る」、自他の別があるようなないような感じです。「くつがへる・くつがへす」と同様に「る・らる/す・さす」の成立に伴い「ささる・さす」の自他の別が生まれた事は書かずもがな。こちらの二拍動詞は方言にもならず、中央でも飛騨でも現代に至るまで、そのまま継続しています。こちらも一方向仮設がご多分に漏れず、角川古語大辞典にはざっと五十ほどの抽象語が記載されていました。やれやれです。一つ言えることは、古代から「さす」の音韻は一切、ぶれていないので、つまりは「くすがる」の語源ではありません。 「つく突・着・著・付・附・就・憑」については二拍につき「さす」同様に音韻変化しない点と、意味の点においてアウトですね。ある事物が、より大きな事物、本体である事物のほうに近づき、接着し、さらにはそれに従属する関係で一体化するに至る過程、とでも言うべき意味ですから、そもそもが、ひっくり返る・とんでもない逆方向を向く(つまりは刺さる)、というような意味がありません。 結論ですが、あれこれ考えても他にどうしても思い浮かぶ動詞が見つからず、消去法的というか、語史的にも、意味論的にも「くすがる(刺さる)」の語源は「くつがへる」という事でいいのではないでしょうか。 おまけ 上記の文章で明らかですが、日本語は動詞の自他が音韻的に規則的に分かれている言語です。英語はそうもいきません。 watch (v.t.) / look (v.i.) at や hear (v.t.) / listen (v.i.) to の如く、全く異なる動詞で表現されるのです。 He looked at Mt. Norukura 彼には乗鞍が見えた He listened to Hida Yansa 彼には民謡・飛騨やんさが聞こえた というように自動詞的に訳さないと本当は零点です。彼は乗鞍を見た・彼は飛騨やんさを聴いた、と伝えたければ He watched Mt. Norikura / He heard Hida Yansa と他動詞で書きましょう。 |
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