大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

さようなら

戻る

私:お別れの挨拶の方言というのは全国で実に様々で、つまりは方言量は数えきれないといったほうがいいかもしれない。
君:じゃあ早速に飛騨方言でのお別れの挨拶を全国の皆様にお披露目してね。
私:この手の原稿は実に簡単、あれこれ各種資料・辞典を検索する必要が無く、内省すれば幾らでも出てくると思う。
君:だから、代表的な言い回しは。
私:「そしゃ。」二拍で頭高。ややぶっきらぼうな感じがしないわけでもないが老若男女が用いる事が可能。
君:語源は「させばや」、つまり、そうすれば、という言葉よね。
私:その通り。「さ然」副詞+「せ」サ変未然形+「ば」接続助詞+「や」間投助詞といったところか。「そうせばや」「そうせや」を経て「そしゃ」というところだろうね。更には「な(あ)」念押しの終助詞を「そしゃ」に接続し「そしゃな・そしゃなあ」などというのも一般的だね。
君:A「そしゃ。」B「うん、そしゃ。」でご両人の会話が成立するのね。
私:その通り。「そしゃ、また。」とか「そしゃ、ためらってなぁ。」もよく使うね。「ためらふ」他ハ四(他動詞ハ行四段)、は「たむ廻」と同根、ぴんと張っていないで曲がっている・つまりは余裕のある事、転じて病気を和らげる・健康でいる・体に気を付ける、の意味の古語動詞で、飛騨方言の「ためらう」は古語と同じ意味だ。
君:実のところは一番よく使うのが「さようなら」だわね。
私:飛騨の出身でない恋人との別れ話ともなると「さようなら」以外には有り得ないだろう。ところが飛騨の出身者同士の男女が「そしゃ」を交わすとなると、「近いうちにきっとまたお逢いしましょう」の意味合いが強いと思うのだが。
君:あら、若い頃に何かあったの?
私:ああ、あったとも。僕が「そしゃ」と言ったら、「なによ、その方言。さようなら。」と言い返された。
君:あら、残念ね。
私:そして僕は悔し紛れにひとり呟く・・あんな女はザラにいる。
君:作り話よね。
私:ははは、その通り。作り話だ。さて、独身時代に何人かの"をみな"に好意を寄せる事が出来た事を感謝している。今、振り返っても「あんな女」と思う乙女がおひとりもいらっしゃらなかった事も。僕の心の中は切なくも美しい思い出だけ。幸せ者だ。そして、そのようなたおやめ様たちの中でも僕のような我儘な男を受け入れてくれた女性は家内だけだった僕の人生。妻には心から感謝している。そして私の目の前を通り過ぎてお行きになった尊敬すべき愛しの皆様へ、ご縁がありませんでしたが、陰ながら益々のご多幸をお祈り申し上げています。私は今は孫が三人のおじいちゃんです。
君:脱線しているわよ。それに「そしゃ」「さようなら」だけでは語彙が足りないわよ。
私:男詞は「あばよ」がある。女詞は「あばえな」だ。厳密だ。男が女詞を使う事は無く、女が男詞を使う事も。
君:「あばよ」は共通語じゃないかしら。でも女詞「あばえな」は飛騨の俚言のようね。
私:勿論。「あばよ」は「さ・あればよ」の略で、江戸後期辺りからの口語だね。日葡辞書には「さらば Saraba」がある。鞍馬天狗 (能)は室町だから、当時は「さらば」で、これが江戸前半まで続いたのだね。日葡がその証拠という訳。大佛次カ(おさらぎじろう)の時代小説で「さらば」が使われるのはギリ・セーフというところだろうね。明治の辞書・言海に「さらば」は既に無い。江戸後期以降に「さらば」は死語になり「あばよ」に百%変わって現代に至っているのは明らか。
君:でも、「さらば」という言葉はラバウル小唄とかの歌詞とか、お笑いコンビ「さらば青春の光」とか、小説・戯曲の表題に幾らでも出てくるわよ。
私:そうだね。でも、挨拶語としては江戸後期に死語になったという事だね。
君:そのようね。
私:そしゃ、また。
君:そしゃな。ちゃんと睡眠とるんやよ。ためらってね。

ページ先頭に戻る