大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

間投助詞とは

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私:間投助詞なるものの発見というか、概念を確立なさったのは山田孝雄先生だ。
君:「日本文法学概論」1936年(昭和11)、バイブルよね。
私:定義としては、ひとつの句内にあるが使用範囲に制限がないもの、という事なんだが、今、孫がよく話すようになった。
君:ほほほ、例えば、「僕さあ、あのねえ、」とかでしょ。
私:飛騨方言の間投助詞と言えば「な・なあ」かな。
君:例えば?
私:あのなあ、おりゃなあ、大西村のなあ、左七やさぁ。
君:現代標準語では「ね・な・さ・よ」に収束するわね。
私:その通り。更には発展的には標準語では「だね・ですね・だな・だよ・ですよ」などが加わる。
君:「よ」って尾張方言じゃないかしら。「そんでよう・ほんでよう」。
私:そうだね。飛騨では言わないね。飛騨はなんといっても「さ」も使うのかね。「おりゃさぁ、大西村のさぁ、左七やさぁ」なら飛騨方言だね。でも文中は「な」、文末は「さ」が正調の飛騨方言だろう。飛騨方言においては「さ」は終助詞の扱いが正しいと思う。「僕さ、こんなを事考えたけど」は飛騨方言としては一発アウト。飛騨の人間なのに東京語を話したがる気障な野郎以外の何者でもない。ぶっ
君:そうそう、わかったわ、簡単な鑑別法が。活用しないという事で助詞であるという事の確認が必要であるのは当然として、それを抜いても意味が通れば、つまりは変わらなければ間投助詞ね。
私:そう。「おりゃ大西村の左七や」でも意味は十分に通じる。
君:間投助詞と感動詞との違いは何かしら。
私:英語には感動詞があり綴りは interjection 、山田先生はここから間投助詞という言葉をお作りになったのかもね。あの時代、国文法を確立するのに英文法の影響がないはずがない。両者の違いは簡単だ。単独で文になれば感動詞で決まり、ならなければ間投助詞だろう。例えば「嗚呼」は感動詞。一語文の作成が可能。「ね・な・さ・よ」そのみので一語文は無理だね。一語文として成立するのは終助詞だ。例えば「ね!(言った通りでしょ)」とか。感動詞も間投助詞も文中に自由に入れる事ができる点は共通点。決定的な違いは、感動詞はオノマトペというか限りなく擬音語・擬声語に近い。それに対して間投助詞は単なるため息語。
君:お互いによく使う感動詞があるわよ。あなたが「ぶっ、ははは」、そして私が「ほほほ」。それに間投助詞は話し言葉でのみ用いられ、書き言葉には表れないわね。
私:その通りだ。感動詞は書き言葉にも、詩歌にも用いられるが、間投助詞は完全な口語の世界だね。それに口語と言えば方言。つまりは間投助詞の使い方に方言らしさというものがにじみ出てくる
君:古語の世界はどうかしら。
私:それはもう、奈良時代で決まりでしょ。い、も、もや、もよ、や、やし、を。
君:「ね・な・さ・よ」は近世語・近代語ね。
私:口語の世界だからなあ。文献がないんだよね。
君:口語の世界だから文献がないんだ。間投助詞なんかいらないわよ、ところでお孫さんがどんどん間投助詞がうまくなるといいわね。ほほほ・・しまった、感動詞。

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