大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
さぶい(寒い) |
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私:昨晩は濃尾平野に初めて雪が降って、朝の寒さもひと際だった。飛騨方言では「さむい」を「さぶい」と言う。バ行音からマ行音への音韻対応があるが、その点を考えてみよう。古語辞典を読むと思わず目から鱗にいきなり遭遇する。 君:ほほほ、気づいたのね。 私:ああ。実はそもそもが上代語に二つの形容詞「さぶし淋」形シクと「さむし寒」形クの二つがあった。 君:そうよ。決定的な意味の違いがあるわね。 私:うん。「さぶし淋」形シクは心が寒い事、つまりは寂寥感。欲求・期待が充足されぬ事で、欠如・欠乏を不満とする気持ちを表す。そうした主観的な心情から転じて、詩歌の世界においてはその感覚が美的理念として貴ばれるように至り、芭蕉の世界、わびさび、の心として結実する。中世からは「さぶし」から「さびし」の音韻変化も生ずる。他方では、「さむし寒」形クは「あつし暑」の対語で温度の低さが全身的な感じをいい、一般的には不快の感情を意味する事も多い。「すずし涼」形シクは快感を伴う場合に用いる。「つめたし冷」形クは局所的な皮膚感覚。 君:そうよ。だから飛騨方言の「さぶい」は結局は、どういう経過だったのかしら。 私:つまりは古語「さむし寒」形クが後代に飛騨方言「さぶい」になったという事。「む」から「ぶ」への音韻変化がいつの時代だったのか、今の僕にはわからない。ひとつはっきりしている事は、古語「さぶし」と飛騨方言「さぶい」は全くの別物という事。 君:あら、日葡辞書の情報が無いわよ。 私:おっと、そうだった。「さむい寒 Samui」のみだね。なんだ、そういう事か。「む」から「ぶ」への音韻変化って近世だったのか。 君:それに全国の方言も調べるといいわよ。「さむ〜」や「さぶ〜」の出だしで沢山あるでしょ。 私:「さむ〜」は随分と多いね。その一方、「さぶ〜」としては「さぶいぼ寒疣」と「さぶやむし寒也虫」のみ。前者は鳥肌の事、後者は寒がり屋で全国の方言。畿内方言にもなっている。近世に全国のあちこちで「む」から「ぶ」への音韻変化が生じたようだ。そして言海に「さぶい」は無く、有るのは何と「さむけし」。これは大発見だ。明治から戦前にかけて「寒気し」が「寒い」になったのだろう。言海には「寒い」の対語として「あつし」「あつけし」の二語が記載されている。近世後半には「さむけし」「あつけし」と言っていて、まずは「あつけし」が先に「あつし」つまり先祖帰りして、続いては「さむけし」も先祖帰りして「さむし」に戻ったようだね。こんな事、どこにも書かれていないぞ。これだから方言の勉強はこたえられない。ジョア・ジョア、君の物♪方言・方言、わしのもの♪ 君:いつもながら、あなたって無邪気ね。高校時代と変わってないわ。ところで飛騨方言では全ての形容詞においてマ行からバ行へと、音韻変化があるわけではないのよね。 私:勿論だよ。バ行からマ行への音韻変化すらある位だ。丁度よかった、上記の共通語「さびしい淋」は飛騨方言では「さむしい」「さみしい」と言ったりする。「さみしい」は半ば共通語でもあるので、本当に話がややこしくなる。 君:しかも古語に「さびし」「さむし」の完全に意味の異なる形容詞があるのだから、語源を考えたり、更には歴史的変遷を考えたりすると頭がこんがらがっちゃうのよね。 私:おいおい、古典の世界、つまりは文学の世界だけで当惑していてどうなる。僕の興味は全国の方言だ。然も各地には勿論、歴史もある。だから焦らず、慌てず、ひとつずつ考え詰めて「さむい」「さぶい」の真相に迫るしかないね。たかが一文字の違いだが奥の深い世界だ。 君:多分、今、あなたの机には十数冊の辞典なのよね。おそらくしおりの箇所も数十か所ね。あつい気持ちが伝わるわ。 |
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