大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

くる(来、=行く)

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私:飛騨方言に自カ変くる(来、=行く)の用法がある。これについて考えよう。
君:手短にお願いね。
私:同法は全国各地の方言として残っている。全国共通方言。
君:つまりは?
私:自カ変く(来)は万葉集にも例があり、行く、の意味の和語だった。物ごとが話し手の関心の中核をなす場所または時点(多くは現在)に向かって移動し接近する事を言う。話し手のいる時・所が中心となるのが普通であるが、時には話し手の関心の地を中心として言う場合もある。
君:もう少し簡単にお願いね。
私:うん。要は話者中心の動詞、移動を伴う概念、アスペクトといってもいいね。一見した所では行くの意味になるのは話者が移動しているから。つまりは物の位置の見え方の相対性という事になる。
君:車窓の眺めという事ね。
私:そう。新幹線の静かな車内、客観的には君が東京に行く事であるが、東京が近づいてくる事は[東京が来る]という事であるし、君の心がすっかり東京であれば、君は東京に来る、という飛騨方言の表現になる。
君:ふーむ、時枝誠記的には人の動作を表す具体語というよりはアスペクトに基づく観念語というわけね。
私:そう。観念語。従って自カ変くる来、は方言としても多義語。生まれる(静岡県安倍郡)、帰ってくる(北海道松前)、があるようだ。
君:行く・来る、の対立が古くからあったわけではないのね。
私:いや、そもそもが、行く、は明らかに俗語で後世の言葉。問題は動カ四・ゆく(行往)だが、記歌謡や万葉にある重要和語。自カ変く(来)と異なり、専ら移動を示す動詞じゃなかったかな。川が流れる、時が移る、年を取る、等々、どうにも止めようもない移動に用いられる事も多い。
君:ゆく年くる年、次々と去っていく年、かと思えば、必ず目の前に現れる事が確定している年、という意味ね。 ほほほ

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