あれ、ようきてくださったナ。あんきにしてってくりょ。
ところで、NHKの朝の連ドラのさくらちゃんで、飛騨弁ってもんもだいぶ全国に知られるようになったけど、
都会の人で中にゃあナア、
”えっ飛騨弁っていうのがあるのですか?!”
なんて聞かはる人がたまにあるながいな。
やっぱナア、日本人でゃ飛騨弁って知らん人のほうが多いんでないがいな。
おりぃだち飛騨の人間やけど、都会にでてくとすぐにピタッと飛騨弁止めて簡単に共通語に変えれるんやさナア。
それに飛騨弁のアクセントはありがたいことに東京のアクセントに近いんやさナア。
反対によ、関西弁や東北弁の人は、ちっとやそっとでは、アクセントが東京弁にならんもんで、
”あれっ、君アクセント違うよね、若しかして関西?”
なんて聞かれてまってすぐにばれてまうんやさナア。
その点、おりぃだち飛騨の人間やと、割とばれんのやさナア。
ありがたいんでないがいな。
やっぱナア、いくら高山の観光ブームやたって、日本三大祭やたって、連ドラのさくらちゃんやたって、所詮、飛騨は田舎なんやで、
都会の人にこんな飛騨弁丸出しでそってまうとなんか恥ずかしたやなもんで、だしかんと思ってまって、
みんな飛騨弁をようそわんのやさナア。
そやけど飛騨の人は都会にあこがれて出ていく人もどっちかいうと多いもんで、
おりぃもそうやったんやけどいな、あーれうれしい、やっと飛騨弁をそわんでもええで、
今日からおりゃ思いっきり憧れの東京弁をそいまくるぞなんていな、ついつい思ってまうんやさナア。
そやけど毎日、都会の人に東京弁をそって、そりゃそれで楽しいもんでえんやけど、たまに飛騨に電話する時ゃ、
やっぱりナア、すぐに飛騨弁丸出しになってまうんやさナア。
”もしもし、母ちゃんか、おりぃや。今、仕事がはよう終わったもんで、こやって電話しとるんやさ。
こっちの生活もすぐ慣れたで心配せんでくりょ。
楽しいって楽しいって、やっぱナア、東京はでかいしナア、想像以上やさ。そしゃな。”
なんて、やっぱ飛騨弁丸出しになってまうんやもナア。
”もしもし、お母さん、僕です。今、仕事が早く終わったから、こうして話をしているんだよ。
こちらの生活もすぐに慣れたからね、心配しなくてもいいよ。
楽しいのなんの、やはり東京は大きいね。想像以上だよ。それじゃね。”
なんて、東京弁なんかでよう電話せんさナア。そんな電話してまうと、わりぃんとこの母ちゃんに
”なんやいな、わりゃたった一ヶ月東京に住んだだけでそんな都会の人の言葉になってまって。
親にえらいいさってまって。何か違う人みたいやよ。そやけど体に気をつけて、ためらわんとだしかんよ。そしゃな。”
なんていわれてまうさナア。
そやけど飛騨弁の活字を見るって機会は本当にないさナア。
小学校やと学級日誌でもみんな共通語で書かされとったもナア。
そんでも大抵の先生は飛騨の出身の人で飛騨弁丸出しで授業してくらはったけどナア。
おりゃ思うんやけど、飛騨出身の小説家も詩人もあんまりおらんろ。
そやで飛騨弁の活字ってものを誰も見たことがないもんで、
そりゃあ書くにも何か、変な感じがするんやさ。
奥飛騨慕情なんて流行歌もありゃ飛騨弁でないんやもナア。
ほんと、飛騨弁の歌を歌いたいなんて思っても代表的飛騨民謡の飛騨やんさくらいしか無いんでないが。
校歌もみんな共通語やったしナア。
おりゃ最近インターネット覚えたもんで、飛騨弁ってキーワードで検索するといな、幾つかヒットするんやけどナア、
肝心の飛騨弁で書かれとるホームページがないんやさナア。
こりゃ若しかしたら日本中さがいでも飛騨弁の活字って朝の連ドラのさくらちゃんの放送原稿だけでないんが? なんて思ってまってナア。
そやもんで、おりゃこんなげばいたホームページ作ってみたんやけど。
手紙やメール書く時もいな、共通語のほうがさらっと書けるんやけど、
飛騨弁でゃあ、こりゃあまたぁ飛騨人同士でも恥ずかしょうてよう、よう書かんのやもナア。
ほんとに人間の頭ってのはおかしたやなもんやさ。
電話やとかナア、また都会んなかで飛騨人同士で会う時もよ、喋る飛騨弁は素直に出てくるんやけど、そいつがすっと書けんっていうんやで。
そやもんで、母ちゃんに手紙書く時やと、やっぱりナア、
”拝啓、お袋殿。都会に出て一ヶ月ですが、すぐに慣れました。やはり都会は便利です。特に地下鉄が便利です。”
なんて、学級日誌書いた時みたいに共通語になってまうもナア。
おりぃも本当、そこんとこが不思議なんやさ。
そやけどやっぱナア、故郷を離れて何年たってもナア、故郷も故郷の言葉も忘れてまうとだしかんもナア。
”故郷の訛り懐かし、停車場の”ってやつやさ。
そやし、第一、飛騨出身の者は同窓会やるとやっぱな、自然と昔そっとった飛騨弁になるろ。
たった一人の飛騨弁普及協会 大西佐七
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