大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

飛騨方言における下一動詞の可能表現

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飛騨方言において若干の下一動詞で可能の意味の特異な言い回しがあり、俚言ではないかと筆者なりに悩んでいます。以下の動詞です。
    可能表現 意味
あける あかる  開ける事ができる
植える うわる  植える事ができる
食べる たばる  食べる事ができる
飛騨方言では、あけられる、うえられる、たべられる、という事はまずありません。せいぜいが、あけれる、うえれる、たべれる、とら抜きで話す事が一般的かという所でしょう。ただし上記の表のように、五段活用のア行活用にように話す事も実に多いのです。戦後あたりまではありきたりの飛騨方言の言いまわしであったのでは、と推察します。ただし、筆者が内省する限り上記のたった三品詞のみのようです。

さて共通語では、あげる・あがる、さげる・さがる、等の例から明らかですが、一部の動詞は、他動詞・自動詞関係が成立します。事実、上記の動詞、あかる、うわる、に関しては可能の意味というよりは実は自動詞の意味で用いられる事もあるのでしょう。例えば、窓があかる、といえば、窓があいている状態である、という意味でもあり、
たんぼに苗がうわっている
と言う言い回しは実は、田に苗が人の手によって繁茂している、という自動詞の意味でしょう。ただし、
この田はおり一人でうわる
といえば、この田は私ひとりで田植えが出来ます、という意味の可能動詞の意味になります。

はたして可能動詞の意味なのか、自動詞の意味なのか、あれこれ内省しますといくつか動詞が浮かびます。例えば
あかる  開いている、 開けけらける
いばる  くすぶっている、
     他動詞・いぶる、の自動詞化
うかばる 浮かんでいる、
     他動詞・うかべる、の自動詞化
おぼわる おぼえられる
     他動詞・おぼえる、の可能表現
かたがる かたむいている、
     他動詞・かたげる、の自動詞化
からがる こんがらがっている
     他動詞・からげる、の自動詞化
などの飛騨方言がありましょうねえ。つまりは自動詞の意味が強いと可能動詞の意味が引っ込んでしまうのでしょう。ですから、食べる、は他動詞しかありえず、それに対応する自動詞の概念(食べられている状態である)の共通語がありません。その為に、たばる、が可能表現として飛騨方言に生きているのでしょうね。自動詞と可能動詞は相補関係にあるのでは、と見たりニタリ佐七。

それでも、いばる、というとピーンときますね。燻製にしてやろう、わざと煙をたいてやろう、という意味なら、いぶる・いぶす、でよいのですが湿った杉葉を囲炉裏で燃やそうものなら、どうにも煙臭くってかってにけむっているわけですから、どう考えても、飛騨方言・いばる、は自動詞なのですね。佐七は民俗学こそ知らね、そもそも飛騨には古代から物を燻製にする・わざといぶす、という生活がなかったのでは、と言葉から想像してしまいます。
おまけ
今2007秋ですが、中日新聞の四コマ漫画に、ちびまるこ、が連載されています。まるこの祖父が友蔵、時々は、友蔵心の俳句、というのがでていてたった一句がなかなかグー、という訳です。偉大なる芸術は最初は模倣から、つまりちょっぴりひねって、
いばる(*)すぎば あゆの燻製できたらなあ
ザ・飛騨弁フォーラム編集人佐七・心の俳句
(*)不完全燃焼でどうしょうもない煙をだす、どう考えてみても自動詞

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