別稿・(飛騨)方言動詞・からかす、の語源に関する一考察
の通りですが、からかす、は枯れさせるの意味である事を論述しました。
もう一点ですが、実はこの動詞の接続則は先行動詞連用形に制限があるという事です。
つまりは、からかす、という動詞は程度がはなはだしい事を指し示す動詞であるがゆえに、
とても・おおいに・かなり・極度に、等々の副詞が付いてはナンセンスになる動詞、
つまりは程度を指し示す事ができない動詞では使用できません。
具体的には、極める・死ぬ、等々の動詞では使用できまません。
もっとも、とても極める、おおいに極める、などと話す人もいるかも知れません。
がしかし筆者はそのような言い方は好みません。高校数学の関数を考えてみてください。
極点というのはただ一点です。どこまでも極点に近づく事はあっても、極点である以上近づいたとは言いません、到達したのです。
あるいはまさか、とても死ぬ・おおいに死ぬ・かなり死ぬ・極度に死ぬ、とは誰も言いません。
子供ですら死は到達点であることを知っています。
ですから飛騨方言では(少なくとも私は)、きわめっからかす・しにっからかす、とは言いません。
これが実は前置きでした。ふふふ。
高校時代ですが、三人の英語の恩師に教わりました。
そのうちのどなたの授業だったかは恩師の
名誉のためにあえて伏せましょう、英文法の授業のある時間です。
1. Many children have died in this pond.
2. Many a child has died in this pond.
先生が言われるに、同じ意味でも違った言い方があるって事なんやさ、と説明されて授業は
終了したのですが、たまりかねて私は先生の後を追ったのです。そして告げました。
誤法一は例えば大きなフェリーが沈没して沢山の児童が一度に水難にあったような場合に
用いるのであり、語法二は例えば小さなボートが転覆して子供が一人死ぬ水難がこの池では過去数十年
の間に何回となくあった、合計してみると死んだ子供は相当な数にのぼるというような場合に
用いるのです、と。
私の説明に瞬時に凍りつく先生そして、なるほど佐七あなたの言うとおりかも知れない、
今までずうっと考え違いをしていたのかも、自分で調べなおしたい、一日時間をくれ、と
言われたのです。翌日ですが、やはり佐七、あなたの言うとおり、
教師として生徒から教わった不名誉を恥じるが大変な思い出になった、君のような生徒に逢えて私は嬉しい、と。
先生に褒められて私のほうがもっと嬉しかったのはいうまでもありません。
そろそろ結論ですが上記英文の飛騨方言訳は
語法一 この池でゃぎょうさんの子供たちがいちどに死んだんやさ。
語法二 この池でゃ今までになあいろんな子供がなんべんもなあ死にっからかいだんやさ。
となると言うわけです。(からかすの exceptional rule なんやさなあ )
えいおまけですが、井戸が枯れる、なんてのはどうでしょう。
常識では一旦枯れた井戸は死んだも同然、二度と水は涌きません。
ところが何かの拍子にあらあら不思議、井戸水が若し再び湧き出てくるような事があり、枯れたり・生き返ったり、
という事が何世紀にもわたったとすれば
この生き返りわたるの不思議の井戸ぁ、今はコンコンと水が涌き出いておるけど、
平安時代からなんべんもなあ、枯れっ枯らかいだんやさ
と言う事でしゃみしゃっきり。(ほんとはこんな井戸は飛騨にゃないんやさ、かになあ)
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